大森一彦氏(元・東北工業大学図書館) 受賞のことば

大森一彦氏 ご紹介いただきました大森でございます。

 私に対する授賞理由のひとつに、何人かの物理学者の書誌を作成したことがあげられておりますが、その真先にあげて下さった〈寺田寅彦書誌〉についてお話させていただきます。

 ‘シャーロッキアン’という言葉がありますが、私は少年時代からの‘トラゲーネフトラヤン’であります。そういう言葉は私が勝手に作ったのですが、永年‘寺田寅彦’に親しみ、また多くの人が寅彦の人と作品について書いた文章を読んでいますと、寅彦を受容する読者層の構図といったようなものが次第に見えてきます。ごく大雑把な言い方ですが、ひとつは親愛派ないし肯定派、他のひとつはアンチ寺田派ないし批判派といったように読者層はおおむね2分されており、その割合は、9対1あるいは8対2というあたりでしょうか。

 前者は、科学者にして芸術家の寺田先生は、一見相容れ難いと思われる科学者の精神と芸術家の精神を一身に体現した稀有の人であるとしてこれを尊ぶ寺田ファンのことであり、先生のなさることはなんでもありがたくて立派だと思いこんでいる、いわば吾が仏尊し―という立場の人達であります。

 これに対する批判派は、寺田のことを、科学者のくせに随筆を書く、俳句をひねる、絵を描く、絵の展覧会を観に行く、トリオを組んでチェロやヴァイオリンを弾く、映画を観に行く、玉を突く…こうした態度を、ディレッタントと称してひどく嫌う。そういう道楽にふける時間があったら、物理学の研究そのものにもっと専念したらいいではないか―というわけです。さらにこの一派は、寺田の学風を、‘小屋掛け物理学’と揶揄し、批判するのです。

 このように相対立するふたつの評価の原型は、寺田の生前にすでにあって、寺田先生を悩ませたのですが、それぞれの考え方が時代を超えて継承され現在に至っているようです。これ以外の諸々の受けとめ方もありますが、熱烈親愛派、断固否定派を両極端とするライン上に位置付けることが出来るように思います。

 さて、図書館に勤めて、‘書誌’という特異な出版物の意義と機能を深く理解し、また数々の優れた人物書誌を見てきた私は、それなら‘寺田寅彦’に関する文献を集めた書誌を作り、諸家の様々な見解を記録したらさぞ面白かろうと思いました。多様な切り口で検索を試みることにより、寺田をめぐる諸見解の系譜をたどることが出来るはずですし、いま述べたような寅彦評価の枠組みがはっきりと分かるからです。長い時間をかけ、よりよい人物書誌のスタイルを求めて試作を何回か重ねた末、先年やっと実現することが出来ました。日外アソシエーツの〈人物書誌大系〉シリーズの「36」『寺田寅彦』がそれであります。

 余談ですが、実はこの本には、編集制作を担当して下さった比良雅治課長さんと私大森の二人だけにしか分からないひとつの秘密が隠されているのです。私はこれを黙っていようかなと思いましたが、こういう愉快なことは言わずにはおれません。それは何かと言いますと、この本の奥付を見ると、〈2005年9月26日発行〉とあるのですが、実はこの〈9月26日〉という日付は私の誕生日なのです。1937年生まれの私は、2005年のこの月この日に68歳の誕生日を迎えたのです。これは比良課長さんの、私のライフワーク完成に対する祝意のサインでしょう。私にはこの1行の文字列が宝石の連なりのように輝いて見えるのです。

 私の本が出た2005年の秋以降、不思議なことに寺田をテーマとする論文や随筆が数多く発表されるようになりました。タイトルに‘寺田寅彦’の4文字をキーワードとして含む論文集や評伝も何冊か出版されました。そこで拙著の与えたインパクトを考えてみたのですが、マイナスの相関は認められる、つまり良くも悪しくもかれらの文業に影響は与えていないのですね。そのことは、かれらの使った‘参考文献’を見ることによりそう判断出来ますし、所説の取り上げ方からもそれが分かるのです。

 一例をあげてみますと、『図書』(岩波書店)の2009年2月号に「寺田寅彦とフラクタル」という文章が出ました。冒頭で寅彦の句〈粟一粒秋三界を蔵しけり〉を引き、これが歳時記によっては〈栗一粒秋三界を蔵しけり〉となっていることを指摘し、「没後全集の『第七巻 俳諧および俳諧論』には〈栗一粒〉として収録されて」おり、「明らかに誤植である」―と、あたかもご自分の発見であるかのように典拠なしで書いています。しかし、この問題には数編の有力な先行文献があり、すでに詳しく検討されており、そのことは私の本により容易に確かめることが出来るのです。私の本意とするところは、単に私の本を‘見なかった’ことを確認したいのではなく、‘見なかった’ことによる著者の失考を惜しむことにあります。エッセイにだってプライオリティがあります。二番煎じの文章に価値はありません。どう考えてもシャーロック・ホームズ研究の水準より劣ります。

 私は現役の時も平凡かつ凡庸そのもので、仙台の地にあって転勤や異動もなく38年間同じ職場で過しました。この間の外部とのつながりといえば、日本書誌索引家協会の会員となって(1977-97)『書誌索引展望』に数編の論文を発表したこと、日本科学史学会の会員となって石山洋氏をチーフエディターとする「科学技術史関係年次文献目録」(1972-94)(『科学史研究』連載)の編集のお手伝いをしたこと、それに私立大学図書館協会書誌作成(書誌調査、文献探索)分科会に所属していたこと(1974-)くらいであります。この会は現在、深井人詩氏の主宰する文献探索研究会につながっていますが、2003年春の退職後も、年刊誌『文献探索』を主な発表メディアとして活用し、自分の関心を寄せる何人かの人物の書誌と書誌論を寄稿して来ました。

 図書館サポートフォーラムは、こうした私のいたって地味でささやかな‘仕事’を評価され、表彰して下さいました。これまでの受賞者は、図書館ならびに関連領域のそうそうたる方々ばかりです。私のして来たことが本当に受賞に値するものかどうか自分ではよくわかりませんし、とまどいを禁じえません。ただ、うれしいことに、深井人詩、平井紀子、飯島朋子といったいわば‘文献探索派’あるいは‘書誌作成派’とでも称すべき方々が、すでにこの賞を受賞しておられることです。私は、尊敬するその方々と、‘書誌’を尊重することにおいて志を共にしていることを喜びとし、その一点につながっていることに深い意義を感じるのです。

 ありがとうございました。