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水谷 長志たけし氏(東京国立近代美術館主任研究員)受賞の言葉

水谷長志氏本日ともに、この赤いリボンをお付けの平井さん、松岡さんはもとより、図書館サポート・フォーラム賞の歴代の受賞者、先輩の皆さまに比べますれば、いささか若輩の身で、まだまだ道なかばの私ですが、このフォーラム賞をいただくこと、大変光栄に思うとともに、いささか戸惑いも感じております。

道なかば、などと申しましたが、道があったのかどうか、今ある仕事についたのも、そもそも図書館につながったのも、“ひょん”なことからでした。

私のもっとも敬愛する小説家、エッセイストの一人に、『週刊新潮』に「男性自身」を連載した故山口瞳さんがいます。その一篇に“仮り末代”というのがあります。“ひょん”なことから、とある町に居酒屋を開き、当座のことと思っていたら、いつのまにか末代の生業なりわいになった、というような意味でした。

近代美術館に職を得たのが、1985年。早、20年を越えてしまいました。ここが、私の“仮り末代”なのかと、いささか思い悩んでいたところでありました。

そもそも図書館と縁を持ったのは、北陸の美しい街で、最初の大学の4年をアグリカルチュアならぬ能楽部出身で、早い話は、勉強しないで、能―謡と笛に興じていただけで4年間を終わり、その後、いささかヤクザな仕事を3年ほどして、いまは無き筑波の図書館情報大学に第3年次編入したことにあります。

たったの2年間でしたが、そこは、もうパラダイスでありました。

指導教官に藤野幸雄大先生を得て、末吉さんとも、京籐さんとも、お二人ともこのフォーラムの大中心ですが、知己を得たのが、筑波の地においてでした。

図書館へ向かう意志はありましたが、これまた“ひょん”なことから、美術館に職を得て、翌年1986年にIFLA東京大会に遭遇、いよいよもって、図書館の世界の広さに瞠目し、憧れは深まりました。ですが、実際の職場は、ライブラリ以前の倉庫と化した資料室を前に、ワンパーソン・ライブラリの“悲哀”と“恍惚”にひたる毎日でした。

その時、一番必要だったのは、人的ネットワークを築くこと、自分を外に開いていくことだったと思っています。すでにフォーラム賞をお受けの波多野宏之さんたちと1989年、アート・ドキュメンテーション研究会を立ち上げた訳です。

先ほど山崎先生より過分なお言葉をいただきました。今回の受賞に当たっては、美術図書館横断検索のALCの設立が、一つの要素であるようです。今日、美術館図書室の現場は、大変に厳しいものがあります。特に、人的配置において。先日もALC6館の担当者が10数名集まりましたが、そこにライブラリを専任として担う人は皆無であり、様々な制約のもと、みんなが非常勤という状況です。

この現実を招いたのは、私を含み、私以上の世代の責任の結果、ではないかというように感じております。

ALCは、アートライブラリの現場の力を、より世間に示していく、アピールする方便として開発したに過ぎません。

願うらくは、今回の私の受賞が、思い上がった物言いのようではありますが、私個人への表彰を越えて、今、現場にあって、アートライブラリを実質において、支えているその、みんなへのささやかなエールにつながることを、願って止みません。

筑波にいた2年間、恩師である藤野先生とホントに良く飲みました。先生が飲んだ最後に歌われるのが、寅さんの歌、“奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙の、今日も涙の陽が落ちる、陽が落ちる”という歌でした。

本日、身にあまる“甲斐”をいただきました。生来の怠け者ですが、この賞に恥じぬよう、これからも奮闘努力してまいりたいと願っております。

本日は本当にどうも、ありがとうございました。(2007/4/13)

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