これまでのこと、これからのこと
1 はじめに
馬齢を重ねて、今年(2014)は私の当り年です。何か良いことが当たりますよという正月の初夢が正夢となりました。「図書館サポートフォーラム」で監事という役職を引き受けているため、受賞にためらいがありましたが、私の活動の後押しをしていただいた多くの方々を含めてのことと受け止め、ありがたくいただくこととしました。以下の記事は、受賞の挨拶を文章にしてほしいと事務局から依頼され、そもそもの部分とこれからの部分を付け足してまとめたものです。
2 そもそものこと
自宅から小学校への往復には電車(東京市電)を利用し、その乗り換え場所は神田神保町だった。天気の良いときには放課後に九段下から神保町までぶらぶら歩くことが多く、両側にならぶ古書店の書棚のあいだを歩きまわるのが習慣となった。表紙や背中をなでるだけだったが、書物への愛着が高じて、中学校で最初の図書委員を指名されるまでになった。
戦後は通学路である中央線の電車の窓から飯田橋の堀端に建つ東京物理学校(現在の東京理科大学)の校舎を見るのが日課となった。不在地主になることを恐れて立川近郊での畑仕事に励んだため、受験勉強が身につかず、結果として、入学はやさしいが卒業は難しい(三分の一?)という評判に惹かれて同校に入学した。驚いたことに当時の教授陣には旧制大学の錚々たるメンバーが揃っていた。学校の設立理由からすれば当然なことであった。教授陣の一人、植村琢先生(東京工業大学教授)は無機化学の大家で、大学の図書館長を兼ねておられ、私は中学校の大先輩ということでお目にかかる機会ができた。1949年夏のこと、日本化学会の図書室に積んだままの雑誌の整理をすすめられた。当時の学生はアルバイトをするのが当たり前だったが、私は夏休みだからといってアルバイトにしばられることがなかったので安請け合い。日本化学会事務局は木造二階建てで現在と同じ場所(お茶の水)にあった。外国書の購入がままならない時代ではあったが、専門雑誌は交換で入ってきた。交換だから、中身は英語、ドイツ語、フランス語に限らない。初めて見る言語に困惑の毎日だった。このことが、後日化学ドキュメンテーションに入り込み、日本化学会化学情報委員会の末席に加わるきっかけとなった。
卒業研究で先行文献を調査する段階になって、専門学校の悲しさ、図書館で該当文献を読むことは不可能に近かった。同じ悲哀をもつ仲間と相談した結果が、“化学文献所在目録”の編集活動となった。強力な後押しは馬場重徳先生(当時は文部省学術情報主任官、後に図書館短期大学教授)であった。最初は東京工業大学図書館に事務局を置く学術文献普及会の出版物として、後に丸善の出版物として4版を重ねた。
Cf.“書誌とのつきあい”薬学図書館33(3)、173-179(1988)
“「化学文献所在目録」刊行の思い出(座談会記録)”、SUT BULL.8(4)、2-13(1991)
3 三つの提案
味の素株式会社への入社は情報活動担当を期待されてのことではなかった。しかし、入社前の体験は情報活動への偏向を促すことになった。定年までの主だった提案は3件(社内ドキュメンテーション、ドキュメンテーションの地域協力、食文化活動)、いずれも企業活動の一端だが、私の提案がきっかけになったと密かに自負している。
入社後3年にしての最初の提案は社内にドキュメンテーション組織を立ち上げることであった。周囲は当惑したようだが、文献や歴史に関心が高い上司をもったこともあって、1956年に中央研究所が設立されたときには独立の図書室を置くことができた。設立の経緯が幸いしたともいえる。宇宙開発に遅れをとったアメリカが官民あげてドキュメンテーションの強化に取り組んだという情報が日本企業の関心をよび、ドキュメンテーションの社内組織化を始めたという時期でもあり、関連セミナーの講師を立て続けに引き受けることにもなった。
活動分野を広めたい企業は自社内の情報資源があまりにも貧弱であることに気づき、閉鎖性を打破して他社との相互協力を望む声が高まった。「ドキュメンテーション懇談会」は京浜地区に研究所をもつ企業3社をメンバーとして1956年に発足したネットワークであった。1958年に川崎市内に設立された神奈川県立川崎図書館は工業専門図書館を強調するための支援グループとして「京浜地区資料室運営研究会」(現在は「神奈川県資料室研究会」に改称)を1961年に結成した。私はいずれにも創設者の一員として参画した。
Cf.ドキュメンテーション懇談会発足当時のこと
“歩きはじめた頃”、ドキュメンテーション懇談会会報、7、15-17(1959)
神奈川県資料室研究会発足当時のこと
“創成期メンバーが語る神資研:(神資研創立50周年記念座談会)”、神資研、45、32-43(2011)
三番目の提案は文化活動組織の設立である。味の素株式会社は創立70周年記念事業として恒例的な事業に加えての新しい事業を模索していた。当時の副社長は研究所における私の最初の上司であって事業委員長を兼ねており、斬新的な提案を求められた。直前にパリに所在するポンピドー美術館を見学する機会があり、その印象もあって文化活動を推薦した。それは面白いということで実現をみたのが食の文化事業、現在の「(公益財団法人)味の素食の文化センター」の活動である。その活動のなかでの私の分担は食文化に関する文献目録および用語集の編集であった。いずれも、食文化を独立の学術領域とするために必須の道具である。定価をつけて売るような代物ではないので、少部数を印刷して実費で配布した。内容を頻繁に改訂せねばならないという事情もあった。退職後もこの仕事を続け、2014年4月現在で、文献目録は66編、用語集は71編までになった。日外アソシエーツから声がかかって、“食文化に関する文献目録:江戸編、明治、大正編、昭和編”をまとめて単行書となった。これが受賞の主対象となった。
Cf.“味の素(株)における「食の文化」事業”、食品工業、24(1)、48-52(1981)
“学際領域としての食文化とその書誌活動”、書誌索引展望、9(2)、25-28(1985)
4 これからのこと
「図書館サポートフォーラム賞」は業績に対して与えられるだけのものではなく、これからも継続することへの期待もこめられている。だから、これで引退ということにはならない。現在の立場でできることは、「食文化に関する文献目録・用語集」の改訂を続けることであろう。ほかにもいくつかの仕事を提案し、かけずり回っている。健康だから続けるというのではなく、期限付きのプロジェクトを引き受けているから病気になれないということだ。そのために多くの方々に迷惑がかかるかもしれないが、先がないというおどし文句に御寛容いただければ幸いである。