第 3 号 2006年7月1日発行
発行人 末吉哲郎
 発行所 図書館サポートフォーラム

目 次

《巻頭特集》 第8回 図書館サポートフォーラム賞受賞式

【末吉哲郎 代表幹事】
 サポートフォーラム賞の性格について申し上げます。このサポートフォーラムは図書館出身者が大部分でございますが、OB・OGから見た図書館に対する希望、図書館在任中に果たせなかった夢を託そうということで表彰を始めたわけです。
 二つ大きい柱があります。一つはユニークな活動をされたり、あるいは今までなかったような本をお書きになったり、という独創的な業績に対して表彰をするというものです。二つ目はいくら独創的でも社会で認められませんといけませんから、社会性のあるもの。図書館はどうも「図書館人による、図書館人のための図書館」というような傾向がありますが、社会の中の図書館でなくてはなりませんので、社会性のある事業を展開された図書館ないしは個人を表彰する、という以上二つが大きい性格でございます。
 そういうことで、今年も特にたくさん応募をいただきました中から、御三方を表彰することになりました。後ほど表彰委員長の井上如先生から講評をいただきますが、審査委員は、表彰担当として井上如、石井紀子、古賀節子、大串夏身の皆さんがいらっしゃいます。実は範囲を広げようということで、幹事全員で審議するということに今年からいたしました。非常に時間を取りまして、二回、日を取ってやりました。激論もございました。そのあたりは井上委員長からお話いただけるものと思います。
 たくさんご応募いただきましたこと、それから主旨に添った業績をあげられた御三方を表彰できるということを、代表幹事として大変喜んでおります。どうぞよろしくお願いいたします。

【井上如 表彰委員長】
 大きく二つ、今年の選考経過と結果のお話をいたします。
 経過ですが、皆さんのお手元にご推薦をお願いしますという一枚物が事務局から送られていると思います。あれに書き込んでご推薦いただくということがスタートになります。その〆切後、コピーが幹事に配られます。
 それをご覧になるとわかりますが、推薦の一枚物だけでは、資料が足りないわけです。選考委員がよく知っている候補、よく足を運んでいる図書館や、推薦対象になっている人物をよく知っている場合には問題ないのですが、とてもすべての候補については無理です。そこでどうしても附帯的な資料を提出していただくということになります。推薦を受け付けましたのでどうか附帯資料をご提供下さい、ということで、事務局で資料を集め、それが幹事に配られる。引き続いて選考委員会を開くということになります。そういう段取りで進めています。
 先ほど代表幹事からお話がありましたとおり、幹事全員が選考委員です。当日出席できないという幹事の方もいらっしゃいますが、その方々にも全員に事前に投票用紙が配られまして、今年の表彰対象には三点の枠がありますから、候補の中から名前を書いて三点選んでいただくということをいたしました。
 選考委員会ではいろいろ議論をいたしまして、すべての委員に評価を含んだ御発言をいただきました。ひと通りご意見が出尽くしたところで投票をしました。
 今年の枠は三点ですから、一人三票。「自分はこの候補がいいと思うからこれだけに三票入れたい」というのは駄目です。各自三点選んでいただくと票がばらけます。ばらついた結果三点に絞られなかったら、二度、三度と投票して絞っていく。そうすることで徐々に意見集約をしていく。
 それともう一つ、投票という方法が果たしてベストであるのか。これも私はベストだとは思っていませんが、セカンドベスト、サードベストくらいには良いのではないかと思います。一つのコンセンサスを得る方法としては良いのではないかと思います。投票はもちろん記名投票です。
経過はそのようなことでございましたので、結果について申し上げます。今年は全部で九点の推薦がございました。これからご説明申し上げますのはそのうちの六つです。
 何故かと言いますと、九つのうちの三つは、説明資料が不足でありました。推薦者の熱意が感じられません。推薦しようとするならその辺の気合いを入れて推薦をしていただく必要があります。自分が推薦する以上、これを評価しないで何を評価する、というくらいの気合いを入れていただかないと。それに対して推薦状一枚では、資料が全部出そろった時、見劣りがします。それはここにございます武蔵野美術大学美術資料図書館、浦安市立図書館、全日本合唱連盟附属合唱センター、その三点でございます。これはせっかくご推薦いただいたのですが、選考委員全員に評価材料となる知識を持っていただくための充分な説明資料がございませんでしたので、結果として入賞に至りませんでした。これはやむを得ないことであります。
 一つお断りしなくてはなりませんが、だからこの三点がもともと他に比べて劣っていたかというと、そういうことでは一切ございません。もし責任を問うとすれば、推薦した方に問いたい。この結果は推薦対象の価値を直接反映していないということは断っておきたいことです。私の個人的な好みで言えば、例えば合唱センター、実際に出かけていっていろんなお仕事を伺えば、さらにいろいろおもしろいことがあるだろうと思います。未発掘の部分があると思いますので、そういう意味では大変残念なことになりました。
 さて残る六つなのですが、その中の入選された御三方は今ここにご在席で、今日はこれから、ご本人の大演説がございますので、それらについて言ってもしょうがないですね。それらを含めて少し雑談的に話しをしたいと思います。
 仮に、今日の私の話に題をつけるとしたら、「人と本をどう結ぶか」、ということではないかと思います。人と本を結ぶのに、例えば場として図書館、人として図書館員がいます。図書館サポートフォーラムとして図書館を考える場合に、人と本を結ぶということは図書館で行われている仕事が中心になる。ただその機能面が重要ですから、その場所を何も図書館に限る必要はないのではないかと思います。
 例えば八重洲ブックセンターというのがあります。人と本を結んでいないかと言いますと、明らかに結んでいます。ご存じのようにあそこの半地下には、レファレンスコーナーがあります。本屋さんというのは人と本を結ぶ仕掛けの一つですから、誰か八重洲ブックセンターを推薦してきたら、対象とする可能性はあるのではないかと思います。人と本を結ぶという機能の面では同じことです。
 人と本を結ぶためには、人に関する知識、本に対する知識の両方が必要です。その両方を知るということはなかなか難しい。しかし結びつけるということは、両方を知らなければできないことなのです。
 図書館というのは、本についての知識を仕入れやすい場である反面、人に関する知識を集めにくい場であります。人と本を結びつけると言いながら、それは偏ったものになりがちです。人と本を結びつけるにはだいたい三つくらいの技術的手段があります。〈メディア変換〉、〈レファレンス〉、〈ドキュメンテーション〉です。
 その中で一番図書館になじみやすいのは〈レファレンス〉です。レファレンスというのは東大の長澤雅男先生のお話ですけれど、図書館員が図書館の現場から発明した唯一の発明品だということです。長澤先生のお書きになった本にそう書いてございました。〈レファレンス〉というのは人と本を結びつける手段として、非常に図書館的な側面を持っています。何かというとそれは本がたくさんあるということです。だけど利用者が本を借りて読むのは一冊か二冊です。ある特定の人の一冊というのは、ほかの利用者にとっては意味のないものですから、たくさんある蔵書の中から、特定の本を特定の人に結びつけなければいけない。このために目録というものがあります。
 〈レファレンス〉というのは、目録からまた更に進んでいきます。ある特定の書物、あるいは文献というものに対して、その中身に直接入っていけるようにする、そのために開発されているのがレファレンス資料、その出版者(社)が日外アソシエーツというわけです。そういうことを考えますと、出版者(社)というのも人と本を結ぶ図書館的な面があると考えられる。
 その点で、今回おもしろい人が出てきました。それが、落選されましたけど毛利和弘さんという人、そして近江哲史さんです。
 毛利さんの『文献調査法―調査・レポート・論文作成必携』、これは日本図書館協会から刊行されているものです。この本はよくできています。ただこれは類書が非常にあります。昔から佃実夫さんなど力を入れてこられた方があって、その延長上として理解することができます。レファレンスライブラリアンは仕事の傍らで、資料について、本については非常に中身に深く突っこんだ知識の蓄積というものが必然的に身についてくる。それを一冊の本にするということは非常に大切な仕事だと思います。自分の知識を自分なりに確かめるということにも意味がありますし、もちろんこれはテキストブックとしても、あるいはレファレンスカウンターに置いておいて、ライブラリアンの日常のレファレンスに役立てることにも意味がある。ただこれは残念なことに落選しました。
 一方近江さんという方がいらっしゃいます。この方はひとりの図書館利用者です。その利用者が自分でレファレンス・ライブラリアンになってしまったというケースです。これは今までにないケースで、新しい方向の一つを示していると思いますし、その意味では〈レファレンス〉というものが何も図書館員だけに行われる仕事というわけではない、誰もがそういう能力を身につけることに意味があるということを実証してみせた。そういう意味でこれは画期的な仕事だと思います。多分それを他の委員も評価したと思います。
 特に『図書館に行ってくるよ』、『図書館力をつけよう』の二冊の著書、この中で近江さんが言っているのは、図書館の外から、自分がレファレンス・ライブラリアンになったつもりで図書館を使うというノウハウの開発です。まさに近江さんの言葉を使えば図書館力ですね、これは非常な新しさを持っている。そこを評価されたのですね。これは近江さんがどのような勉強の仕方をしてフリーランスのライブラリアンになったかを実証して見せる本です。図書館に外から近づいていくための本はやっぱりこのくらいのフリーランスの人でなければ書けないのでしょうか。それに対して図書館員が利用者に向けて書く本は何故こんなにつまらないのかという気がいたします。本を知っていても、利用者のことを知らないということを咎めるべきなのかもしれません。ひとことで言って、フリーランス・リファレンス・ライブラリアンの誕生。それが近江さんの受賞理由です。
さて人と本をつなぐというのは冒頭に申し上げたように三つあります。もう一つに、メディアの変換、というのがあります。革新的といいますか、より深く問題の本質につっこんでいるという点で誉めなければならないのが松岡享子さん。それから紙芝居がありました。
 紙芝居文化推進協議会は落選してしまいましたが、この候補はなかなかすぐれた面があると私は思っております。紙芝居の推薦があって私は初めて知ったのですが、紙芝居は日本の発明品なのですね。私も紙芝居と言えば、子どものころ飴を買って、おじさんがやる探検物や戦争物をよく見ました。いちばん表に絵が出ていて、いちばん裏にその台詞が書いてある。図書館だったら、紙芝居のセットを貸すから閲覧室で読みなさいということになりますかね。それではおもしろくないのです。あのおじさんが、それなりの台詞回しをもって読んで聞かせるからおもしろい。それが子どもの耳に響く。いい年になっても、まだ耳元にそれが残っています。それが〈メディア変換〉の持っている力を立証している。紙芝居というのはメディア変換の非常に原型的なもの、プロトタイプであります。
 紙芝居で残念だったのは、推薦において特定の個人があげられていないことです。この人が創案して紙芝居協議会をプロモートしてきたとか、アドバイザーでもいいから個人名が挙げられていればまだしも、選考委員会ではどこを見定めて評価して良いか分からなかったことも入選を逸した一つの理由だろうかと思います。
 ところで余談ですが、皆さんは全部で 枚の絵からなる紙芝居で、例えば 枚目の絵の裏には何枚目の絵の台詞が書いてあるか、すぐに言えますか? 図書館のカード目録にクイズ性はありませんが、紙芝居の表と裏の関係は、こうしたクイズ性も秘めています。
とにかく紙芝居屋さんは、自分で資料を作り、それを演じて見せる。手書きであれ活字であれ、文字列を読んで聞かせる〈メディア変換〉。それが紙芝居にもありますし、それをもっと地で行ったのが松岡さんです。
 松岡さんの仕事というのは、子どもが読む本をご自身でお書きになること、あるいはお集めになること。そしてそれを見せる。子どもはなかなか読みませんよね。だからそれを読んで聞かせるのです。人と本をつなぐのに、〈メディア変換〉という操作がある。これが重要なことです。もちろん松岡さんは他にも重要な仕事をたくさんしていらっしゃいますが、一番の基本は子どもに本を読み聞かせるというこの単純な、しかし決定的で重要なことだと思います。
 我々はやはり母親から話を聞いてものごとを覚えていきます。児童書を見てみると、それは会話の連続です。子どもが親から言葉でお話を聞いた、そのスタイルが耳のどこかに残っていて、本の読み方もそこから身につけていく。だから楽しい会話の連続という児童書は、子どもにとって母親の話と一緒です。我々は本の読みかたの前に、声の聞きかたというところから入っていって、興味がだんだん出てきたときに初めて文字列になっている会話に接していくのです。そうして子どもが一人前の本好きになっていく。これが私の申し上げる〈メディア変換〉というものです。
人と本をつなぐというときに、〈メディア変換〉というものは非常に強力な方法であると私は思っています。松岡さんの場合たまたま児童書ですけれど、そして児童の場合には私が申し上げましたように育児的な側面がありますけれど、これが私が人と本とを結ぶかけがえのない手段と考えるところです。
 三番目に〈ドキュメンテーション〉があります。ところで図書館と〈ドキュメンテーション〉というものは似て非なる、というか、境界が分かりにくいものです。
 図書館というのは探し物の世界です。探し物というのは、何があるか、どこにあるかという二つがあります。図書館というのは徹底して、どこにあるかということを探します。それ以外の探し物はしません。
 先ほど申し上げた〈レファレンス〉というのは本の中に入っていくものです。ある特定のデータを探し出して、これはどの書物のどこにあるかということを探す手段を提供する。これが〈レファレンス〉です。
 私はさる研究所で働いておりました際、職員に対して、徹底的にクイズを作ってやってもらいました。一回に十問くらい出しまして、二週間くらいで解いて、一人一人に答えを提出してもらいます。お互いに教え合ってもいい。仕事そっちのけでみんなやっておりました。『a』というタイトルの雑誌がある、どこが出していて、入手可能かどうか調べる、という問題がありました。それを調べるには雑誌の存在が載っているものをどのくらい知っているか、どのくらい探し方を知っているかということになります。非常に熱心な若い社員たちが残業してとうとう見つけました。今その雑誌が出ているか知りませんが。
 例えば、その雑誌を調べるには、何という本のどこをみるか。これが探し物ですね。どこにあるかということを探すことになります。図書館というのは徹底して、どこにあるかということを探す。何があるかという探し物をしない。
 レファレンス・ライブラリアンは文献の中身に入っていきまして、それを探し物の役に立つように編成し直したツールを使う。ところが一方で何があるかを探すということがある。これは探し物に二種類あって、簡単に分けられないのではないかと思われるでしょう。その通りです。何があるかということを探すのと、どこにあるかということを探すのは本来一つの探し物なのだとするときに、次の展開が出てくるのです。
 そうすると急に展望が開けます。〈ドキュメンテーション〉というものは一つの手段なのだと。何の手段か。大づかみに言って、調査研究の手段ということがはっきりします。そうなってきますと、これは研究活動に密接に結びついて初めて、「どこに」と「何が」を探すことが、分けられないということがはっきり認識できるようになります。
 〈ドキュメンテーション〉の立場を取っておりますのが、高橋晴子さん、平井紀子さんのお二人です。このお二人は大変似た仕事をされております。
惜しくも入賞を逸されました平井さんの資料『服飾史の基本文献解題集』をここに持ってまいりましたけれど、大変よい仕事です。イコノグラフィーという分野がありますけれど、それを充分にふまえた大変立派な仕事だと思います。
 高橋さんの仕事も大変よく似ています。高橋さんはドキュメンタリストとして服装の研究、ドレスコードの研究、そういう分野の仕事をなさいまして、特定の蔵書や図書館の現場を踏まえてということではありません。もちろん多少はそうなのですが、非常に応用範囲の広い仕事であります。
 それに対しまして、平井さんの仕事は、文献の中身を解題してみせる。一冊一冊の書物を対象とするという点で、いわゆる書誌学に極めて近い。一方、中身が衣装に関する本であるところはお二人非常に似ております。平井さんの場合、徹底してイコノグラフィーを解題に適用した点で書誌学を越え、ドキュメンテーションの領域に接近しているところが特徴です。
 高橋さんの仕事はどういう特徴があるかというと、これはもちろん衣装の研究、身装の研究ということに直接結びついているし、『近代日本の身装文化』は学位論文なのですね。つまり衣装なり、衣服なり、装身具、そういうことを研究する、そのこと自体を学問として捉えて、自分で研究をなさった成果の一つがここに現われているということです。しかもここには研究手法なり方法論なりという部分が外してあります。そういう意味では研究書そのものではありませんが、非常に立派な書物ができあがっていることは、先ほど申し上げましたとおり、〈ドキュメンテーション〉という分野が研究と不可分に結びついていると言うことです。
 それは、何があるかを探すことと、どこにあるかを探すことを不可分に捉えるから、そういう発展が得られるのだと思います。そこに図書館と〈ドキュメンテーション〉の違いがあらわれています。
 先ほど〈メディア変換〉ということを申し上げました。文字列から音声への〈メディア変換〉です。子どもに母親が本を読んで聞かせるという〈メディア変換〉が持っている育児への好影響でした。 高橋さんの場合はオブジェクツを写真に撮ったり書物の中から画像部分を選び出したりして画像データを造り、それをデータベース化するという〈メディア変換〉です。しかもそれ自体を目的としたのではなく、あくまでもドキュメンテーション、つまり何があるかを探し出す手段として活用しました。”身装文化”の研究のためです。画像データベースを造るという〈メディア変換〉が先にあって、それを踏まえて自分の学問が可能になっているのです。
 人と本をつなぐという機能のなかで、〈メディア変換〉というものはかなり画期的な可能性を持っていると思います。〈メディア変換〉というものは図書館でも活用されているし、子どもの教育にも、自分の勉強の際にも、役に立っている。文字列になっているものが音として耳に入ってくる場合にも、研究対象を画像として処理する場合にも、やはり大きな可能性を秘めていると思います。
 以上のように今回のフォーラム賞は三人の方が受賞なさいました。近江さんは“レファレンス・ライブラリアンのすなるレファレンスを利用者とてしてみんとてするなり”という新しい分野に、説得力のある筆致で先鞭をつけました。松岡さんは、文字列を音声にして読んで聞かせることが育児教育、特に知育に決定的な影響を及ぼすことを大人がもっと理解すべきだという信念で仕事をしてこられました。それを私はメディア変換の重要性として再評価させていただきました。高橋さんは、不可分離な二種類の探しものを具現する手段としてのドキュメンテーションをご自身の研究に活用して成果を挙げられました。
 それぞれどこかしら関連しながら、しかしそれぞれたいへんユニークな業績をあげられた三人の方々を今年のフォーラム賞受賞者として表彰することができて、たいへん良かったと思います。

【受賞者/松岡享子氏】
 私はずっと肉声の復活ということを申し上げてきましたので、恐れ入りますがマイクは使わないでお話をさせていただきたいと思います。本日は本当にありがとうございました。
 私は子どものころは図書館というものをあまり知りませんでした。子どもの時の図書館体験といえば、私は高橋さんと同じで神戸の出身なのですが、大倉山というところに市立の図書館がありまして、中学の頃に一度だけそこへ行ったことがあります。実は、ほとんど、暗い場所という以外は印象を持っておりません(笑)。
 それよりも大倉山というのは市の真ん中の方にあるのですが、私は垂水といいまして西の方に住んでおりまして、大倉山からの帰り、友達と、帰りの電車賃を節約してアイスクリームを食べようということになって、そこから垂水まで歩いて帰ったのです。詩人の竹中郁という方がいらっしゃいますが、途中、ふと見ましたら、竹中郁さんの御宅が、目の前にあったのです。それで「こんにちは」と入っていって、ご挨拶をしたり……。そうやって海岸伝いに歩いて帰ってアイスクリームを食べたというのが子どものころの図書館の唯一の体験です。本当に図書館というものを知らなかったのです。
 実は昨日、神戸女学院という私の最初に入った大学の同窓会がありました。そこでちょっと思い出したのですけれど、神戸女学院には中高部というものがありまして、そこにも図書室がありました。私は子どもの本が好きだったものですから、そこへしょっちゅう行って岩波少年文庫を読んでおりました。
 何とかして児童文学で論文を書きたいと思ったのですが、その頃はもちろん大学で児童文学など講じておりませんでしたから、仕方なく先生にはつかないで、ほとんど一人で論文を書いてしまったのですけれど、その時に、どういうわけかわかりませんが、大学の図書館に、英文の児童文学関係の参考書がかなりたくさん揃っていたのです。
 どなたがそういう道を備えておいてくださったのかわからないのですけれど、そういうことがあったおかげで、カードで "children's literature" と引いては、あがってくる参考書を出してもらって読んでおりました。ところが、その著者がライブラリースクールのプロフェッサーであると紹介が書いてあったり、その本自体がアメリカンライブラリーアソシエイションから出版されていたりというようなことがあって、私にとっては初めてそこで、ライブラリーという言葉が、自分の興味を持っている子どもの文学と結びついて認識されたのです。
 卒業して父の転勤で東京に参りまして、ある日、新聞に慶應の図書館学科の学生募集が出ておりました。図書館というのがぴっと注意をひいたものですから、三田まで出かけていきました。私は別に図書館の勉強をしたいわけではなく、児童文学に興味があるのだが、ここに勉強に来ても良いのですかと聞いたら、そういうこともこちらでやっているから是非いらっしゃいと言われて編入試験を受けて入りました。
 慶応の図書館学科に入って初めて児童図書館員という職業がこの世の中にあるということを知りました。私は子どもが好きで本が好きだったのですけれども、学校の先生になるには算数ができないのと成績をつけるのが嫌なのでできないと思い定めておりました。成績をつけないでも良く、お話をしたり本を読んでやったりすることが職業にできるなんてこんないいことはないと思って、ここで児童図書館員になることを決心したのです。
 ただ、四十年前のことですから、卒業してもなかなか雇ってくれる先がありませんでした。機会を待っている間に、留学し、ボルティモア市のイーノック・プラット公共図書館でインターンを経験しました。帰国後、縁あって、大阪の市立中央図書館の小中学生室というところで三年間働きましたけれど、当時、労働組合と市当局との約束で、三年以上同じ職場に人を置かないという決まりがあり、三年経ったらもう子どもの仕事はできなくなったのです。若い頃ですから、「他のところへ行っても、何年かしたら帰ってこられるかも知れない、何年というのが二十年になるか二十五年になるかはわからないけれども、また子どものところへ帰ってこられる可能性があるかもしれない」と言われましたが、一所懸命子どもの仕事をしたいと思っていた二十代の私には、そんなことではとても我慢できませんでした。それで退職して家庭文庫をはじめ、結局は私立の図書館を作ることになりました。
 私を紹介する文章の中に、「税金を一銭も使わず」という言葉が書いてあります。それが私にとってはとてもおもしろかったのですけど(笑)、実に税金は一銭も使わないで三十一年間やってまいりました。でもそれはそんなに楽なことではありませんでした。
 今年も三月二十日くらいの時点で今年度の決算は大幅に赤字だということがはっきりしておりました。毎年毎年、ちょっと大丈夫な時と落ちこむ時を繰り返して、つま先立ちで三十年間やってきたのです。今年はそうしましたら、ある図書館員の方が、お父様が亡くなられて受け取った遺産を、かなり高額ぽんと寄付してくださいました。そのお金の換金に手間取りまして、三月の三十一日にやっと私どもの口座に入りまして、それでめでたく今年をしめくくることができたのです。
 実は東京子ども図書館には、全国に1、500人くらい、毎年三千円以上のお金を出して私たちを支えてくださる賛助会員がいます。それから私どもは出版をしておりますので、その売上げがあります。こうした自分たちの事業収入と、みなさまからのご寄付とで、なんとかやってきました。企業からのお金もほとんどもらっておりません。もっぱら個人の寄付が頼みです。
 私はガンジーという人を非常に尊敬しております。ガンジーがしたいろいろな仕事は、ある意味でのNPOなのですけれど、志を持って仕事をしている人にお金がたくさんあるというのは良くないことだと彼は自伝の中で言っております。"From hand to mouth「その日暮らし」"をしているのが一番良いというのです。そうしてこそ志を生かして仕事ができるということを言っています。彼もアシュラムというところに人を大勢抱えていて、お金がなく、食べさせるものがないという日があったそうですが、突然、自動車が前に停まり、出てきた見知らぬ人がぽんとお金を置いて去っていき、救われたという話が自伝の中に出て参りました。私どもの館も、今年はややそれに近いような状態で収支を合わせることができました。
 一所懸命やっていると、ふしぎに助けてくださる人があるものだ、また、私が知らないところで私の仕事の道を支えてくださる方がある――あの大学の図書館員の方のように。そんなふうに、お顔を知らないけれども、私どもの仕事を支えてくださる方があって、今日までやってこられたことを非常にありがたく思っております。私どものところに来てくれる子どもたちも、子ども時代をいきいきと生きて、人のために道を備える人になってほしいというふうに思って仕事をしております。本日は本当にありがとうございました。

【受賞者/近江哲史氏】
 私は、「素人が本を書いてきた」ということをお話し申し上げたいと思います。今回私の受賞理由を拝見いたしますと、「『図書館に行ってくるよ』『図書館力をつけよう』などの著作を通じて、図書館利用者、図書館員の双方に、非専門家的な立場から刺激を与え、新しい時代に即した啓蒙活動を行なった功績」ということでございました。私はこれまで十数冊本を書いてきましたが、それは全部素人がやった仕事ということになります。
 私は学校を出て、印刷会社に入りました。その時は印刷業界で本は印刷技術の本だけしかありませんでした。私は入社して早々に総務課の勤労をやっておりましたから、新入社員教育の中で、印刷業界の話とか印刷の社会性についての講義をしようと思っても、その参考書が皆無だということに気付きました。それで私は『印刷の社会学』という本を最初に書いたのです。入社七、八年の頃です。それが私の著作の始まりでした。
 その後いろいろと仕事を変わりまして、関西から東京へ来て、多くの他の会社の社史を作るという仕事に配置されました。この時はこちらにおいでの末吉さんにお世話になったのですけれども、『社史の作り方』(東洋経済新報社)という本を書きました。これもその頃には類書がほとんどなかった本でございました。
 それから『企業出版入門』(印刷学会出版部)を書きました。この頃は企業出版という言葉が少し出かけた時代でございました。
 私の勤務時代の前半は、そのように管理部門にいたものですから、いろいろ考えたのですけれど、その頃『経営学入門』という本がブームになりました。あれを皆読んでいましたが、私が思うに、経営学をサラリーマンが読んで会社のために一生懸命勉強したって、自分は搾取されているばかりです。経営者が読むならいいのですが、経営されている人が読んでどうなるのかということを考えていたのです。そこで私は『経営され学入門』というのを考えて、執筆・出版構想を出版社に話したのです。ところが、いくらなんでも『経営され学』というのはまずいと言われまして、こんな本になりました。『管理され上手は出世が早い』(日本文芸社)、とこういう題でございます。でもやはり管理されている人にも、経営学という言葉は魅力があるのですね。続けて出したのが、『絶対残ってほしい人、すぐ辞めてほしい人』(日本文芸社)というものです。
 いずれも最初に申し上げましたように、それらの内容のテーマについて私は専門家ではないのです。元々専門などない人間がやっていることですからたいしたものではありません。それから先ほど社史を作る仕事をやっていたと申し上げましたが、この社史というものはご存じのように会社の周年事業であるわけです。五十年で五十年史、百年で百年史というように。そういうようなものですから、社史をやっていると、周年事業というものに関わります。それで『周年事業のすすめ方』(日本工業新聞社)、こういうものを作りました。
 個人的な私のライフワークは、佐久間貞一という、今の大日本印刷の前身・秀英舎という会社の創業者に関するものです。佐久間貞一は明治九年に秀英舎を創業するのですが、この人の伝記についてはほとんど研究がされていません。なぜ佐久間貞一が私の関心を引いたかと言いますと、現在、労働基準法がございますが、その前身の工場法というのがあります。私のながく勤めた会社の創業者であると同時に、工場法を経営者の側から成立の促進をしていったと言いますか、労働者保護法の制定に非常に大きな貢献をした人が佐久間貞一なのです。そういう社会的に意味のある人物である佐久間貞一が、無名なのです。これを研究したいということでやってきまして、私の自費出版ではありますが、『工場法はまだか』というタイトルで佐久間貞一の生涯というものを出したことがございます。
 定年になってからだんだん暇ができたものですから、図書館に行っておりますと、だんだん図書館というものがいろんな形に見えてきました。ヘビーユーザーと私は自分で言っておりますが、そうしているといろいろなことに気が付くものですから、これをまとめまして、日外アソシエーツに持ち込んだのです。その時、私の考えていた本のタイトルは『ちょいと図書館に行ってくるよ』というものでしたが、編集の方から、「いくらなんでも『ちょいと』はまずい」ということになりまして、またいろいろと揉んでいただきまして、『図書館に行ってくるよ』という題で出していただきました。
 ちょっと調子に乗りまして、その次に二冊目が『図書館力をつけよう』。「図書館力」などという言葉はないのですよね。「老人力」という言葉はありますが、あれは消極的な使い方の言葉です。「図書館力」というのは、図書館を使いこなす力という意味で、初級、中級、上級、それから有段者、初段、初段以上の段もあります。この本を2005年の秋に出していただきました。後で気が付いたのですが、2004年に、全く別の意味の「図書館力」という言葉があったのです。これはいわゆる、日本の経済力とかそういう意味の、私の用いたものからいうと逆の立場から使った「図書館力」という言葉でした。なるほど、反対側の立場からの使用もありうるのだと、非常に驚いたのですが、結果的には出版していただきました。
 そういうことで次は第三弾を準備中です。題だけ申しますと『図書館は宝の山よ』というものでございます。図書館に対して普通の人は宝の山であるという意識がないのですが、なぜ図書館が宝の山であるというかを述べようと思っています。
 結局、私が書いてきた本はどれも専門家ではなくて、素人が書いてきたものです。今回も図書館というものを素人の目線から書いた本でした。雑誌などに書評が十数点出たわけですが、どちらかと言えばほとんど図書館界の専門家の方にご覧いただいていて、「素人というのはこんな馬鹿なことを考えるのか」というような批評がほとんどでした(笑)。ですから私としては恥ずかしいのでございますが。
 素人が見ますと、図書館というのは独特の業界です。例えば図書館員のエプロン姿、あれは私には一番抵抗があります。エプロンは、確かに作業として本を運ぶ際にはいいのですが、普通の書店などはやはりお客様に対応する際にはユニフォームがあると思うのです。作業着でお客様の前に立つというのはどうなのかなと思ってしまいます。それから図書館には、奉仕係、奉仕部というのがありますね。これも私は吃驚しました。私は奉仕というと勤労奉仕というような、無償で一生懸命やる、という言葉としか思わないのです。ところが図書館の奉仕部とか奉仕係は給料をもらっているのに、奉仕というのはどういうことかなと、いまだに抵抗があります。
 図書館について、おそらく知っていればそんなことは言わないだろうということをたくさん書いていて恥ずかしいのですが、それもそれなりに第三者的立場から見て、という意味で有効であったということで、今回このような賞をいただいて、真に恐縮しておりますが、感謝致しております。ありがとうございました。

【受賞者/高橋晴子氏】
 事務局の方で資料を作ってくださっていますので、私の資料と、論文の抜き刷りをご覧いただければと思います。
 先ほど松岡さんが神戸出身だとおっしゃっていて、私も神戸出身ですので、とても嬉しかったのですが、私も大倉山図書館には思い出がございます。あんまりいい思い出ではございませんが。あの図書館ではレファレンスのテレフォンサービスがあるということを、私は何だか小さな頃から知っておりまして、電話をしたことがございます。「日韓問題について教えてください」と言ったのですね。そうしましたらレファレンサーの方が、「そういうことはお答えできません」とおっしゃいました。私は通信教育で司書課程をとりましたけれども、そこでまたそのことを思い出しました。どうしてあの時「日韓問題について知りたいのなら、こういう資料を見なさい」という回答をしてくれなかったのかと疑問に思いました。それと、中之島図書館である大阪府立図書館、この二つがだいたい私の経験した図書館でした。
 大学を出まして、ひょんなことから、私は、服装――今は「身体と装い」ということで、もう少し範囲を広げて考えていますけれど――、そういう主題と出会いました。そしてパリの国立図書館、それとブリティッシュライブラリーを経験いたしました。そこでは、先ほど井上先生がおっしゃいましたように、何があるか、どこにあるかということが、徹底的に索引されていたのです。ものすごいカルチャーショックでした。日本の図書館の暗さに比べて、非常に重みのある、尚且つ素敵なライブラリアンがたくさんいました。そして分類ではなくて、徹底的に索引していることに対してカルチャーショックを受けたのです。ここで私と図書館というものが初めて結びついたのです。索引というのはこれだけの力があるのだということを、身をもって体験したのです。
 そして帰ってきまして、またひょんなことで大阪樟蔭女子大学に勤務することになり、ここに衣料情報室という、情報センター、とまでは言いませんけれど、情報サービスをするところを作りました。ここでは服装の情報サービスを、内部の学生、あるいは外部の方、マスコミの方等問わず、皆さんにとにかくサービスをするという形で、やってまいりました。
 それで私、ドキュメンテーションをやっていながら大変申し訳ないのですが、お手元の論文中の抜き刷りのどこにも「大阪樟蔭女子大学」と書いていないのです。今回表紙だけを作り直して、副題に大阪樟蔭女子大学を入れてもらいました。中はただ衣料情報室だけになっておりますが、これは大阪樟蔭女子大学の衣料情報室ということです。私の二十四年間の情報サービスの歴史を書いておりますので、またご覧下さい。
 私の原点はやはりここなのです。外国の図書館の索引システムにカルチャーショックを受けて、そして原点は衣料情報室。そこから今の仕事へと移っていくわけなのですが、ちょっと資料をご覧頂けたらと思います。この衣料情報室の時代に、日外アソシエーツから次のような服飾文献目録関連のものを四冊出していただきました。これらは、服装の抄録・索引誌『衣料情報レビュー』の累積版にあたります。また、これを基に致しまして、現在データベースを作成しております。国立民族学博物館の方々、そしてそれ以外の方々、合計七人の方々とチームを組みまして、MCDプロジェクトというものを作っております。このMCDプロジェクトでは、「身装――身体と装い」のデータベースを作っております。現在、〈服装・身装文化データベース〉にはデータベースが五本、そして〈アクセサリー・身装文化デジタルアーカイブ〉を入れて合計六本、公開しております。
 そこには文献データベースと、二本の画像データベースがあるのですけれど、その画像の方に、私自身はだんだんと移ってきております。そして私自身は、現在、近代日本の身体と装いの画像データベースを作りたいと思っております。その基になりましたのが、先ほど井上先生がご紹介下さった『近代日本の身装文化―「身体と装い」の文化受容』という著書なのですが、あれは、学位論文がベースとなっています。学位論文は『「身装」画像にみる近代日本の文化変容――データベース化のための基礎研究』というタイトルです。学位論文のほうはデータベースを構築するという観点から近代日本の身体と装いを見た、そして著書の方は文化論の観点から近代日本の身装文化を述べた、ということなのです。
 また『美人』、近代日本の『美しい人』もテーマのひとつです。その当時の人はどういう人が憧れであったか、またどういう人をその当時の人は美しいと感じたか。身体と装いの主題では、やはり人が美しくなるということは避けては通れない問題だと思います。でも男性がやる場合、やはり避けるのですね。怖い、と(笑)。言ってはいけないというような・・・・・・。ですから女性の私だったらこの辺りも踏み込めるのではないか、ということで、学位論文ができましたあと、近代日本の美人データベースという構想を『朝日新聞』を紹介していただきました。
 著書ができました後、お手元の二つの書評が出たのですが、もうひとつご紹介したい書評があります。実は今日、私と平井紀子さんが接戦だったと言うことをうかがって、本当に勿体無いような気持ちでおります。と言いますのは服装のライブラリアンでいらっしゃる平井さんは私の師匠なのです。彼女に倣って来たのです。ですから本当は彼女が先に受賞なさらないといけないのに、本当にありがとうございましたとしか申しようがありません。また、アート・ドキュメンテーション学会で、私が幹事長をやりまして、平井さんに幹事をやっていただいているのですが、そこで『アート・ドキュメンテーション通信』というものを出しております。そこに平井さんが今度、書評を書いてくださっている。まだゲラの状態でお渡しできなかったのですが、さすがにそこには私がデータベースと文化論の間で非常に悩んだことをきちっと捉えて書評して下さっているということをありがたく思っております。平井さん、本当にありがとうございました。
 それから表彰状なのですが、こんなに素晴らしい表彰状、と吃驚いたしました。実は今ここにいらっしゃる末吉さんにも、アート・ドキュメンテーション学会の監事をしていただいております。アート・ドキュメンテーション学会でも表彰をしなさいとアドバイスいただき、来年からやろうと思っているのです。いただいた表彰状の楯を見まして、やはりこのくらいのものをいただくと、他の方に見ていただきたいというか、こんなに素敵なものをいただけるのは嬉しいことだなというのが実感できました。ただこれを作るのは大変お金がおかかりになったかと・・・・・(笑)。アート・ドキュメンテーション学会では三人を表彰するのは無理だろうから、毎年二人くらいにしないといけないかな、などと考えておりました。これを見習ってアート・ドキュメンテーション学会でも素晴らしい表彰と、それからこの式典のアットホームなムードも、ぜひ私どものやっております学会に生かさせていただきたいと思います。
 最後に、先ほど社会性のある図書館ということを末吉さんがおっしゃいましたが、私もこれからは社会性のあるデータベースということをもっと心に刻んで、データベースを作っていきたいと思います。本日はありがとうございました。

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俳句八吟

山内 明子

貝焼きのふつふつ艶話佳境

夕蛙さてどののれんくぐらうか

昼寝覚この世の電話鳴りにけり

まな板の干されて銀座夏めけり

墓洗ふ夫の知らざる婆となり

てやんでえ松茸なんぞてやんでえ

ちょんの間のこの世なりけり春を待つ

おでん酒馬券を拝む男かな

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高原のかわいい図書室―遙かなる須坂・峰の原―

恵光院 白

 長野県、菅平はラクビーなど、高原スポーツのメッカである。春秋のハイキング、夏にはテニスやサッカーのチーム、クラブの合宿(大学や全日本なども)、冬のスキー等々。近年は400mの正規トラックを持つ高地トレーニング用の陸上競技グランドや、クロスカントリー・コースも整備されいる。かつて早大ラクビー部の考案した攻撃法、“菅平(カンペイ)”は、この地で開発されたと聞く。スポーツに励む人達の練習風景は見ているだけでも楽しい。むろん地元特産の高原野菜も美味しく、近辺には宿泊施設も色々ある。
 菅平は、先年まで上田市方向にあった真田町の一地区だったが、平成の大合併で近年、上田市と合併した。しかし名所旧跡など通例の観光地とは違って、菅平の名は、スポーツ・ブランドでは超有名である。東京から車で約三時間前後で、また長野新幹線・上田駅からバスで五〇分、菅平高原に着く。真夏など、爽やかな微風が出迎えてくれる。
 白髪頭の往年の猛者ラガーメンの、出腹を隠さない肉弾戦(?)の試合も、夏の珍・風物詩である。ん歳以上は赤いパンツを必ず着用のこと、赤パンにはタックル禁止、赤パンはパスされたら直ぐボールを回せ、抱えて走るな、十五分ハーフ、メンバー総入れ替え有り、の変則ルールである。因みにラガーメンというラーメン店のメニューが店頭で笑っていたり、多数の練習試合予定表の横に「レフリー急募!」のチラシが貼ってあったりする。
 さて、この菅平から車で五分の所に、須坂市の仁礼・峰の原のペンション村がある。日本のペンション村開村の草分けであり、また“ペンション”という言葉と宿泊の形、実物の、我が国での最初期のものではなかろうか。生活、学校、郵便などは上田市の菅平に含まれるが、行政区としては長野市隣接の須坂市の南部を占め、関東方面からの高原の玄関口となっている。根子岳、四阿山(アズマヤサン)が背後に鎮座し、その広大な裾野である。
 このペンション村では、標識のタヌキ+番号が枝道ガイドをしてくれる。タヌキの7番から半歩入ると可愛い図書室が開かれている。建物は木造平屋、地区のJAのもので(?)、小学校の教室位の広さ、プチレストラン+プチ図書室で、名は“ハックルベリー”。カレーライス、コーヒー、アイスクリームがお奨めである。ピアノもあって、小集会も出来る。
 蔵書は大学の先生だった人の、いわば個人コレクションなのだが、地区の人々への貸し出しが目的である。先生は別用の途中で本を数冊届けるためにだけ、そこまで登って来ることもあるという。いわゆる図書館的なケアは特にない。書架、テーブル、椅子も普通の図書館常備のものとは違う。貸り出しノートが置いてあるだけである。棚には、環境問題、自然+動植物、アウトドア、公害問題、近年の健康関連の背文字が並んでいる。
 高原の図書館と言えば、同じ長野県、軽井沢町立図書館が、別荘滞在者たちのために学者向けとして洋書などを備えたり、蓼科高原の別荘地が学者村として売り出したと、かつて一部報道されたことがあったが、今はどうなっているのだろうか。
 ここの蔵書群は、むろん堅いものだけではない。筆者などは、倉本聡著の『北の国から』のシリーズや周辺の本をこの図書室で手にして、倉本の初期、テレビドラマの時代、激務の日常を知った。つられて、先のドラマの故地、北海道・富良野へも二度出かけてしまった。またその棚から『日本の川を甦らせた技師、デ・レイケ』(上林好之著、草思社刊 一九九九年)も読んだ。デ・レイケ(DE RIJKE, Johannis :1842-1913)は明治初期の内務省技術顧問(俗称・お雇い外国人)で、日本の山間、河川、海岸等に対する近代的治水・治山工事全般にわたっての先駆者として、評価、記憶されるべき技術者、指導者である。重要な施工法、“粗朶沈床(ソダ・チンショウ)”という工法がその時期に開始された事や、画家エッシャーの父で技師、ジョージ・A・エッシャーがデ・レイケの先輩として、やはりこの時期、共に活動したことも知った。著者・上林氏は、同じく現場での技術者だったが、この本を上梓したのち、かの技術者の故国、オランダから爵位を受けたと語っていた。文章の語り口が文筆家の様な立板に水でないのが、デ・レイケの生き方には相応しかった。
 さらにこの峰の原高原や北側の山系を源流として須坂市、千曲川(信濃川)に下る幾つかの河川について、昭和五六(一九八一)年の洪水記録はじめ関連の記録も拾い読みした。これらの川は大昔からの暴れ川で、中世期以後、扇状地地形の下流一帯では治水事業が重ねられ、のちにその肥沃な里山から須坂という町が形成されていった事が記されていた。同市は江戸時代には菜種栽培から油の生産、江戸末期から明治時代には養蚕、製糸業が盛んとなり、現在はリンゴなど果実の名産地となっている。
 ところでこのプチ図書室は、筆者の推測だが、標高からみて、日本では相当高いところに在るのではなかろうか。標高一五〇〇m前後だという。因みにそこからすぐ上にあるゴルフ場は標高日本一ということで、冬場は閉鎖される。このゴルフ場のすぐ脇から晴れた日には、北アルプスを南端として日本海までの山稜、長大なスカイラインが一望できる。
 ここで、恐縮ながら私事を記したい。筆者はこの高原ペンション村に大部以前から何度か訪れている。また、昨年、今年と、江戸末期〜明治初期のアート・ドキュメンタリストにして美術家事典の編纂者、“堀直格”の小伝をつづり、公にした(ホリ・ナオタダ、晩年奥田姓にかわる。生没・一八〇六・一八八〇年。文末・注一、二参照)。
 この堀直格が、地元・旧須坂藩の殿様だったことを、平成に入り何年か過ぎて調べだしたところで初めて知り、あまりの偶然に筆者は驚きの限りであった。資料では、ご当地、峰の原高原を縦断し旧大笹街道が通じていて、北国街道のサブ・ロードとして往還していた。その挿話によると、須坂という小さな藩の殿様は、往時この山岳街道を登り、十人にも満たないお供しか連れずに、江戸参府した事もあったらしいのである。
 涼やかな高原の風、それに一杯のコーヒーを前に、一五〇年前に活動した蔵書家、ビブリオグラファーにして、書目、索引をライフ・ワークとした文人藩主を想い、我が拙い文章に添削の時を過ごしたのが、このプチ図書室“ハックルベリー”(自然児の意?)であった。その小伝を草するに先だって須坂市立図書館、同博物館の方々に、その後は雑誌編集の方々に、資料について色々とお世話になったのも、有り難く、懐かしい。
 この緑のペンション村は既に我が第二の故郷になっている。逗留するペンションの木下オーナーとの四方山話、食事は5☆、遠望する神々の座、それに緑陰にしたたる静けさなど、我がウサギ小屋には無い夏のしのぎやすさに浸っている。ボランティアが声高に唱えられている昨今、蔵書、個人コレクションを篤志として、ささやかな手作りの図書室、そこでの馥郁たるコーヒー共々、永遠に芳しくあれ、と願わずにはいれない。
― 完 ―

(注一)堀直格  信濃国・須坂藩、第十一代藩主、在位一八二一〜一八四五年。国学者・黒川春村を召して『扶桑名画伝』、他を編じ、塙保己一後の和学講談所とも交流があり、蔵書家としても聞こえた。平成の現在、国立国会図書館、国立公文書館、東京国立博物館資料館、宮内庁書陵部などに、彼の旧蔵書「花迺家文庫」(ハナノヤ・ブンコ)の一部が収蔵されている。因みに二〇〇六年春、右の国立公文書館で開催された《大名―著書と文化・》展には、堀直格公もその著編とともに紹介されていた。参考ながら、須坂市に隣接する小布施町(オブセマチ)の著名文化人、高井鴻山も同一世代で、共に今年生誕二〇〇年である。
(注二)”堀直格小伝―『扶桑名画伝』編纂者、一八〇六〜一八八〇年―”前篇、中篇、恵光院白著 「須高」誌須高郷土史研究会(須坂市)刊 第六一、六二号(二〇〇五年一〇月、二○○六年四月)

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近江哲史著『図書館にいってくるよ』

植村 達男

  図書館員が、本書の目次を開くとギョッとするだろう。なぜなら、冒頭の第一章は「ひまつぶしに出掛ける」というタイトルだ。この本の著者は、「ひまつぶし」のために図書館を利用している。図書館はそもそも教育のための施設。「ひまつぶし」のために利用するなんて、怪しからん。そんな意見もでてこよう。しかし、現実を直視してみよう。平日の昼間の図書館。そこには退職者と思われる五十歳代から七、八十歳代までの男性の姿を数多く見かける。株式投資のためか、または会社員時代からの惰性か、日本経済新聞や日刊工業新聞を丹念に読む人。ダイヤモンドや週刊東洋経済をひざの上に置いたまま居眠りをする人。中には辞書や参考書を広げて、細かい字で執筆中。そんな姿をチラホラとみかける。印刷・出版される当てもない「自分史の原稿」をひたすら書き綴っているかにみえる高齢者もいた。これらの人々を総称して「ひまつぶし」の目的で図書館に来ている人々。そういっても差し支えないだろう。
 しかし、考えてみて欲しい。これら高齢者たちは大正から昭和初期の生まれ。戦争で苦労し、日本の高度成長時代を支えて来た。しかも、過去においてたっぷり税金を納め、そのお蔭で図書館も建設出来、蔵書もそろった。会社人間として四十年前後勤務して、ようやく解放され「家でゆっくり」と思いきや、妻の見解はちがう。夫に家でゴロゴロしてもらっては困る。出かけてもらいたいのだ。ゴルフに行くにはお金がかかる。何しろ年金生活者だ。碁会所、パチンコ、カラオケ、駅前の書店・喫茶店・居酒屋等々行くところは多少あるが、図書館で過ごすのが最も経済的。少なくとも新聞は「日替わり」で変化する。毎日行っても飽きない。それに、冷暖房完備・・・・・。

 「ひまつぶし」に少々紙幅をとりすぎた。本書の著者近江哲史氏は退職した元サラリーマン、基本的には真面目な人物。調べ物をするために図書館を利用している実践家だ(第二章)。イギリスに旅行した後で、湖水地方のいわれやそこに住んだ文学者たちの跡を追い文献を探す。一九世紀イギリスの詩人・画家ラスキンについて調べた。また、満州で過ごした子供時代を回想し「満州国国歌」の歌詞を見つけるために努力を重ねる。チャント図書館の本来の活用法も身につけている。また、第五章では図書館でのイベントを紹介する。著者は、近所の千葉県流山市の市立図書館で、ボランティア団体のメンバーとして映画会を開いたりもする。この会では、往年の名作「カサブランカ」、「エデンの東」の上映を行った。単に図書館を暇つぶしの場と考えているわけではない。このあたりを読むと、図書館関係者は「ホットする」に違いない。

 以上のように本書は定年退職者を対象とした「図書館利用マニュアル」といった性格の本。しかし、マニュアルでありながら、「読み物」という編集態度に徹している。巻末には丁寧な索引がある。この索引の中から、アメリカの図書館、郷土史、自分史図書館、電子図書館等々気になる事項が出てくるページをめくってみる。そんな利用法もあろう。本書を購入するのは決して「ひまつぶし」に図書館を利用する高齢者のみではないだろう。

 ※本稿は「週刊読書人」に寄稿した原稿をもとに、若干の加除修正を行ったものです。私は、近江さんの著書が出版された当時、「この本は、一部の図書館関係者の反感を買うものではないか」との危惧を持っていました。そのことが、以下の文章の冒頭部分にあらわれています。私の危惧は吹き飛び、旧知の近江さんのユニークな著書が、図書館サポートフォーラム賞を受賞されました。本当によかったと思います。(2003年、日外アソシエーツ、1900円+税)

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ベルナール・フランク氏と小林宏氏、そして日仏図書館情報学会

岡田 恵子

 読者の皆様の中にはこの表題の固有名詞をご覧になって、誰? 何この学会? と思われる方も多いことでしょう。あるいは、ベルナール・フランクはパリのギメ博物館の収蔵庫で、法隆寺の阿弥陀三尊の勢至菩薩を発見した人物(*注)として新聞で見たことがあるけれど、不可思議な図書館団体らしきものとどう結びつくの? と。驚くなかれ、右の団体には、この図書館サポート・フォーラムのメンバーの、十人近くが会員(元会員を含めて)になっている。この学会員で図書館サポート・フォーラム賞を受賞された方も、すでに四人を数える。また、三名はフランス政府から勲章を授かっている。

 パリ日本文化会館図書館発行の「図書館ニュースレター」(二〇〇三年特別号)の巻頭に、故フランク氏のポートレートとフランスの元大蔵大臣であった、クリスチャン・ソテール氏の「ベルナール・フランクの想いで」が載っている。ソテール氏の文章は見事であり、フランク氏のお人柄をあますことなく書き綴っている。
 まず、“ベルナール・フランクの微笑は、ランス大聖堂の天使の微笑だった”、と書き出し、またその言葉でこの文章を終わらせている。フランク氏をご存知の方はきっと頷かれることであろう。
 私は、フランク氏のもとで約二年半、若輩の司書として働き、その後も何度かご夫妻にパリのご自宅に招いていただき、東京でお会いすることもできた。このことは、わが人生にとってこの上ない出会いと体験であり、見守っていただいているという安心感を抱いたものである。元日仏会館研究員でもあったソテール氏の言葉を借りるまでもなく、フランク氏は、“日本の仏教研究に情熱をかけた、途方もない博学の主”であり、日本研究の分野でアカデミー・フランセーズの初代会員となった、私にとってはいわば雲の上の人のようなお方だが、天使のように、あの微笑で私たちに接してくださったのである。
 一九七二年一月から七四年九月まで、氏は日仏会館フランス学長として日本に赴任された。そのころ、日仏図書館研究会というのが、杉捷夫先生(当時日比谷図書館館長)を会長に結成されていた。たいしたことはまだしていなかったから、日仏会館の理事の中にはそれこそ“なにそれ?”と思った諸氏もおいでであった。財団法人日仏会館には、日仏関連学会というのがあって、それぞれの学問領域で活躍される方々が、日仏何々学会というのを結成し、活動している。
 フランク氏が、私たちの研究会をその中に加えることを強く主張してくださった。研究会の創立者の小林宏氏は、ゆくゆくはとお考えのようだったが、ほかの会員たちは、当時の力量を考えて仲間入りまで考えてはいなかったことと思う。図書館学なんてあるの?といわれる時代にあって、フランク氏は、司書の力を信じ、評価し、協力をおしまない研究者であった。このことは、会の年会誌である、「日仏図書館研究」第二十三号(一九九七)に松崎碩子氏(現コレージュ・ド・フランス日本学高等研究所所長)とともに既に書いたので、ここでは詳しいことは省略させていただく。
 この日仏関連学会の仲間入りをすることで、会の名称を日仏図書館学会と改め、その後、日仏会館の協力を得て、フランスからの図書館人の招聘や派遣、年刊の会誌、ニュースレターや単独の研究書などの刊行物を発行、研究会、シンポジウム、見学会などを行って、学会として歩んできた。これらについては、小林宏氏の著作、「図書館・日仏の出会い」や会誌などに書かれている。
 小林氏は「日仏図書館情報研究」第二六号(二〇〇〇年)の”三〇周年に寄せて”で、次のようにお書きになっている。
 それぞれの個性的な図書館人で構成するこのような特殊な会が、こんなにも長く続いてきたことに今さらのように驚き、複雑な感動を禁じえない。多忙な本業を、持ちながら・・・・・
 まことに、である。事務局担当を十五年ほど引き受けていた私にとっても、小林氏の寛容の精神(ヨーロッパに近代以後でき上がったもの)、会員たちの積極的な協力はまことにありがたいものであった。私たちは年齢や地位などに拘らず、ずばずばと物を言ってきたが、それでも仲良く会を育ててくることができた。世の中はますます複雑になり、グローバル化と叫ばれて、日本ではもともと少数派のフランコフォンヌと呼ばれる人々は、とみに減ってきたが、この会は未だに一二〇名ほどの会員数を保っている。ちなみに、図書館、書物、フランス文化に関心を持たれている方ならば、フランス語を学んでいなくても、この会のメンバーになることができる。
 先ごろ、会員の有志たちが、文筆家でもあった小林宏氏の文芸作品を編集し、一冊の本にまとめて刊行した。これは、昨年から氏が刊行のために準備されていたものだが、出来上がった本を目にされることなく、この二月に惜しくも他界された。若くして、NHKの放送劇脚本の懸賞募集で第一位を獲得され、作家としての道を歩む扉も開かれていたのに拘らず、氏は公共図書館人となられて日本の公共図書館の発展につくし、日仏図書館情報学会の創立から、幹事長、会長を永く務められて、日仏の図書館交流に携わられた。

 考えてみれば、フランク氏がお亡くなりになられたのが一九九六年、六九歳であった。ということは、小林氏が八〇歳であったから、ほぼ同じ年齢、あのいまわしい第二次世界大戦中に、洋の東西で青春時代を過ごし、辛酸をなめて時代をくぐりぬけてきたお二人だったのである。ここで両氏を偲び、今年も私たちに贈り物を残されているふたつの記念すべきトピックスを紹介することで、この一文をしめくくらせていただくことにする。

◆小林宏著「図書館の秋・雨だれの歌」 編集代表 波多野宏之 
(東京、アイアールディー企画、二〇〇六年三月、三七一頁、発売 日本図書館協会 二八〇〇円+税)
◆二〇〇六年町田市立博物館展覧会予定 「おふだ ― ベルナール・フランク コレクション」
二〇〇六年九月十二日―十月二十二日
一九五〇年代初期の初来日から収集されたおふだの数々の中から約三〇〇点 問合せ先 町田市立博物館電話〇四二―七二六―一五三一
(インターネット検索によれば、フランク氏のコレクションは所長を勤めておられたコレージュ・ド・フランス日本学高等研究所に寄託され、國學院大學の先生が去年からその調査を行われている。)

(*注) 「ギメ美術館で発見された法隆寺の仏像」に関しては、インターネットの検索エンジン(ヤフーなど)で、”フランク ベルナール 法隆寺”のキーワードで検索するか、http://www.photo-make.co.jp/hm_2/ma_20_4.html を参照ください。

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声高らかに図書館行進曲!

近江 哲史

 図書館の活性化を進めるためには、図書館行進曲も必要であろう。因みに「行進曲」というだけのキーワードでインターネットを検索すると、グーグルで約十七万八千件もあった。私にとってマーチといえば、まず軍艦行進曲だ。「守るも攻めるもくろがねの……」と口ずさめば即、身体が躍りださんばかりである。でもそんなことを言っていると年令が分かってしまう。そこでヴェルディ作曲、「アイーダ」の「凱旋行進曲」や、ワーグナーのローエングリン前奏曲「結婚行進曲」などもいいではないか、とも言っておこう。
 一般論はいいから、図書館行進曲を考えよう。そんなものがあるのか? これまでこんな話は聞いたことがない。こんなマーチを歌いながら図書館に歩いて行く人はいまいし、館内でこれが鳴っていたら、利用者は何と感じるであろうか。まあ、それはこれにどんな曲がつくかによる。それはさておき、「図書館行進曲」は事実上二つの曲(あるいは歌詞)が必要であるとする。格調は極めて低いが、試しに作った私の作品:――
 まずA面。

一 今日は雨降る シトシトと
   図書館にでも 出かけるか
   手持ち無沙汰の シニアたち
   行けば何かと 読むものを
   見つけてしばし 癒される
   新聞雑誌 数多く
   世の中のこと 総ざらい

二 気を取り直し 読書をと
   これは名作 素晴らしい
   小説伝記 ノンフィクション
   思いのままに 取り出して
   読書三昧 こりゃ愉快
   いくら読んでも 皆タダで
   心は豊か 気も晴れる

三 そうだあのこと 確かめよう
   思い出しては 参考書
   ひっくり返し 調べ出す
   分からないので レファレンス
   ちょっとお頼み 申します
   それならこうです ここにある
   なるほどさすが 司書のカン

四 人に会うにも 図書館で
   サロンのように 考えて
   本好きモノズキ 集い来る
   仲間が語る 図書館は
   憩いの場なり 学びの場
   さあ、わが町の 図書館へ
   行こう行こう 図書館へ

 B面はちょっと作詞に時間がかかった。私が図書館員でないからであろう。さっきは利用者側からの話であったが、今度は図書館司書の方から見るのである。でも意向を慮って書いてみたら、こういうモノに仕上った。ご批判を仰ぎたい。

一 幾十万の 資料あり
   さあいらっしゃい 利用者さん 
   老若男女 どの人も
   楽しみながら 学べます
   借りて帰って お家にて
   ゆっくり読んで 下さるも
   どうぞ自由に お勝手に

二 何か分からぬ ことあらば
   お尋ね下さい 私らに
   難問奇問 押し寄せて
   答に惑う われ悲し
   されどベテラン レファレンサー
   快刀乱麻 たちどころ
   古今東西 何事も

三 限られたるは 資料代
   年に六万 七万と
   日々押し寄せる 新刊書
   あれも買いたし これも欲し
   リクエストなど 考えて
   ベスト、ベターの 選書わざ
   お勧め揃った 書架ご覧

四 押し寄せ来るは 児童室
   ワイワイガヤガヤ 静かにね
   いい本あるよ 落ち着いて
   小さい子には 読み聞かせ
   楽しい童話 シンと聞く
   あすがあります この子たち
   わが図書館の 宝です

 というわけだが、お粗末の限りと言われそうだ。ちなみにこれを軍艦行進曲の韻律で歌ってみたが、さっぱりサマにはならなかった。これはいかん。新譜がほしい。それにしても「図書館行進曲」なんて需要はあるだろうか。

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春 晝

大谷 明史

 窓外には緑が若い。
 ある図書館の喫茶室。隅の席に、古びた服の老人が正面を向いて話している。但し、向い合う席には誰も座っていない。老人は、卓子越しに正面の椅子の背凭れに向って語っているのである。飲物はすっかり冷めているようだ。

 ―さう、「一個の人間としての自分と、廣大な宇宙との間に圖書館が在る」と言ひますよね。それをもう少し親切にほぐすと、かう言ふ事ですかな。
 先づ自我の意識が存在する。即ち、存在する事を意識する。その意識は言葉としてのみ存在する、と唱へる人も居るし、言葉になる以前に意識が存在する、と言ふ人も居るやうだ。これはまあ、「言葉」と言ふ言葉が多義的だから生ずる現象かも知れぬ。
 吾人をして言はしむれば、思考のやうな意識の作用に於て用ひられる言葉と、他者への傳達に用ひられる言葉とは必ずしも同じではないのだ。いや、吾人が言はずともそんな事は既に誰かが言って居る事だらう。吾々凡俗の徒は、専門家とは異なり、先行の言説など調べずに物を言ってしまふ。兎も角、思考言語と傳達言語とは必ずしも同一ではない、と吾人は考へる。
 人が自らの意識内容を他者に傳達しやうとすれば、思考言語を以て形成されて居る意識作用の内容を傳達言語―つまり日本語だとかコプト語だとか、自身と相手の共に理解し得る言葉に變換する、と言ふ訣だ。尤も、人が母国語で傳達しやうとする時には、その變換は無自覚の裡に行はれるので、そのプロセスは残念ながら自身にもよく見えぬ。傳達言語は通常文字を備えて居るので記述に依る傳達が可能だ。其處で、複数の人々に向けて、記述内容の複製、つまり、書物が作られる。
 出版には費用が掛かる。出版する人、又編輯する人も居て不特定の人々への傳達が實現する。通常書物は商品として制作される。商品が購入されると言ふ仕組を前提として出版が成り立つのだが、著者が発信した意識作用の内容は大抵はその書の買手の許で留まる事になる。例外はあらうが、大多数は買手の壽命と共に、或いはそれ以前にその書物は消滅する。
 その書物が一點も残されずに消滅した場合には、著者の意識作用の内容は、残念ながら宇宙には繋がらぬ。では繋がる道はあり得るのか。左様、若しあり得るとせば、それは圖書館を通じてだ。圖書館の書架に納められる事がその第一歩と言ふ訳だ。
 だが単に圖書館であるだけでは勿論不十分だ。それは永久圖書館でなければならぬ。永久圖書館に架蔵せられる事に依って、初めて小宇宙の意識作用の内容が大宇宙に補捉され、確保されるのだ、と吾人は考へる。
 「完璧なる圖書館」の夢は、古來幾人もの思想家や作家に依って描き出されて来た。「完璧なる圖書館、即ち全宇宙の記號化」と言ふ構圖の背景には、恐らく超越的存在―吾人はこれを「超存在」と呼ぶが―つまり「超存在の存在」が措定されて居るのだらう。唐突だが、吾人は圖書館人諸氏に深く敬意を表する一人だ。
 「完璧なる圖書館」は、然し、凡ゆる出版物を漏れなく蒐集、保存すれば十分か―成程、圖書館としては慥かにそれで完璧だらう。だが、人間の意識作用の傑出した事例が、凡て文字を以て表現され、出版される、とは言へないのではないか。否、書物が形を成す為には、著者は往々何らかの斷念を必要とするのではないか。実際には個人の意識の内部では絶えざる思考の練磨が繼續して居り、假令或る時点でその内容を文字に依って表現したとしても、次の瞬間には意識内容が變化してしまふ。何度校正ゲラを廻されてもその都度真赤に書き込まなければ納まらない、さう言う人も居ると聞く。―本當の優れた思考成果は、寧ろ未だ書かれざる、或いは竟に書かれざりし書の中に在るのかも知れぬ。「完璧なる圖書館」には、傑出した「書かれざりし書」も蒐集して貰ひたい。優れた小宇宙が確實に大宇宙に保存される事を吾人は希ふのだ。 ―「繼續する現在」を捕捉するには、比の常識世界を逸脱する必要があらうが―

*       *       *

 機械音の響きで目が覚めた。電子レンジの音である。此処は自宅だ。家人は出掛けている。レンジの蓋を開けると茶碗が湯気を立てている。朝食時に淹れた珈琲の残りを温め直している内に眠ったらしい。道理で何処かの喫茶室にいる夢を見ていたようだ。取り出した茶碗をテーブルに置く。――待てよ、この状況も又、夢の中か・・・・・
 
 窓外に緑が深い。
(平成十八年五月)

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ライブラリー・ツーリズム―観光資源としての図書館―

戸田 光昭

 図書館の役割は多様化している。私が先に、『フォーラム』第二号で英国のクロイドン図書館の事例に触れたように、図書館先進国である英国では、メディアの多様化にも対応した図書館活動が展開されている。そこで、日本でも図書館発展のために、広い視野で図書館の役割を考え、実行していく必要があると思う。その一つとして、今回はライブラリー・ツーリズムを取り上げることにした。
 アート・ツーリズムやミュージアム・ツーリズムにならって、ライブラリー・ツーリズムがあってもよいのではないかと考え、ライブラリー・ツーリズムを提唱したい。この考え方は、アメリカには既にあり、例えば、『公共図書館―西部の観光資源宝庫―』(文末の参考文献を参照)というガイド本が発行されている。
 日本ではどうであろうか。インターネットのサーチエンジンで「図書館 観光 ツーリズム」と検索すると、約2000件がヒットするが、ほとんどは、その用語が入っているだけで、図書館を観光資源として考えているものは皆無にひとしい。
 その中で、この検索テーマに一番近いと考えられるものは、函館市のものであった。「函館市観光基本計画」の中に、「自主の観光文化都市づくり」という章があり、観光資源・施設の魅力の再構築として、観光客向けだけでなく、市民と観光客が「ともに楽しめる」という視点を重視した観光関連施設を整備し、その活用を定着させようというものである。
 その大半は従来型の観光施設であるが、水族館等のファミリー・レクリエーション施設とならんで、中央図書館の建設が入っている。いわゆる観光施設ではなく、日常的に市民も観光客と一緒になって楽しめるものとして、図書館が取り上げられているのは注目に値する。具体的な内容は調べられなかったが、新しい傾向と言えるのではないだろうか。
 日本では、観光ガイドブックに博物館は載っていても、図書館がきちんと掲載されていることは少ない。駅からの案内地図にも示されていないことがある。それは、誰でもが必要とする施設ではない、したがって、観光施設などとしては認知もされていないからであろう。しかし、観光客として、その土地の興味深いことがらを見聞しようとする時には、どうしてもライブラリー機能が必要になる。
 例えば、宮沢賢治を訪ねて花巻へ行くと、宮沢賢治記念館はすぐに分かるが、関係資料のコレクションを有する花巻図書館は、市の広報やウェブページをあらかじめ調べておかなければ、そこに関係資料があることも知ることが困難である。
 ミュージアムにライブラリー機能があれば、それに対応することができるのであるが、ほとんどのミュージアム施設には、公開のライブラリーは無い。非公開の資料室を持っている所はあるが、これは観光客が利用できない。同じ建物に博物館と図書館施設が同居している場合もある。例えば、愛知県師勝町図書館と師勝町民俗資料館の場合がある。(師勝町は2006年3月20日に西春町と合併し、北名古屋市が誕生し、名称も北名古屋市東図書館と北名古屋市歴史民俗資料館に変わった。)このような場合、利用者がそれを使い分ければ、観光資源として活用することは可能であるが、それぞれが独立しているため、両方の施設を上手に使い分けることはかなり難しく、また、同居している事例も多くはない。
 本稿では、上に述べたガイドブックを先進事例として、その内容を紹介し、日本における今後の参考にしていきたい。なお、このガイドブックでは、建物を図書館施設の観光資源としての中心としているが、観光資源としての図書館は、そのようなハード面だけでない。図書館の有する情報・資料をも総合的に活用してはじめて、意義があることにも配慮している。即ち、総合的な図書館の利用に関する情報も、このガイドブックは収録しており、大変にユニークな本であると言えよう。
 この本は、アメリカ西部の 州にある図書館への、著者夫妻の個人的で、独断と偏見によるガイドであると序文の最初に書いてある。彼らは何百という図書館を訪ねた。それらは、大都市、有名観光地近隣にあったが、主要観光ルートにはないものもあった。この本は公共図書館に重点をおいたが、公開されている多少のミュージアムと専門図書館が含まれている。
著者は、 州の中にある3、500館から約550の図書館を選び、40、000マイルを車で走り、訪問したのである。その結果が、このガイドブックとしてまとめられた。
 この本のユニークなところは、全ての図書館にどのような特色があるかについての評価付け(類別)がされていることである。その内容は次の通り。
  A:建築様式的に目立つ建物である図書館。(architecturally)
  E:それ自体が目的地として訪問するのにふさわしい刺激的な場所としての図書館。(exciting)
  H:何かの特別な歴史的重要性を持った建物である図書館。(historic)
  T:観光客がよく行く有名観光地の近くにある図書館。(tourist)
  V:壮観な眺め(展望)を有する図書館。(view)

 これら図書館の具体例を本書ならびに日本の事例も入れて挙げてみると、次の通りである。
 Aは、国立国会図書館関西館や大阪府立中之島図書館などがこれにあたるであろう。
 Eはカリフォルニア州ビバリーヒルズ公共図書館である。この図書館は建築的にも突出して魅力的であるだけでなく、 世紀と 世紀の美術と室内デザインに関する優れた蔵書と、2万点以上の貸出可能な芸術スライド写真を有している。
 Hは、最初に挙げたクロイドン図書館であり、ユタ州ソルトレイク市にあるユタ州歴史協会図書館である。このユタ州歴史協会図書館はユタの歴史に特化しており、特に写真資料は容易に複写サービスしてもらえる。歴史協会と図書館が入っている建物はリオグランデ鉄道の拠点だったものである。
 Tはハワイ州オアフ島のホノルルにあるハワイ州図書館であり、千葉県浦安市の浦安図書館であろう。
 Vはアリゾナ州にあるアパッチ・ジャンクション公共図書館である。ここからは、スーパースティション山系の絶景を、高さが メートル近くある大きな窓から望むことができる。日本では安曇野市穂高図書館(旧 穂高町立図書館)のベランダでは北アルプスの山並みを眺めながら読書をすることができる。
 このように図書館を取り上げてみると、様々な利用の仕方があることが分かり、図書館の発展性がさらに広がるのである。多様な図書館ガイドブックが発行されることを期待したい。

(参考文献)Public libraries: travel treasures of the West / Mary and Anna Rabkin. Golden, Colorado, North American Press, 1994. 332p.

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赤れんが棟を歩く

高山京子/神野 潔

 赤れんが棟を歩く(1) (PDFファイル246KB)
 赤れんが棟を歩く(2) (PDFファイル223KB)
 赤れんが棟を歩く(3) (PDFファイル415KB)

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チョットだけよ

 井上 如

 認知症、あるいは最近特に四〇歳代から六〇歳代にかけての若年認知症が深刻な社会問題となる中で、歳をとらずに長生きする方法を自分であれこれ実験してきた。その結果、秘訣は三つあることが判った。いまさら手遅れとは思いつつも、今日は、日ごろのご厚情に報いるため、LSFの皆さんにその一端をこっそり伝授することにする。もちろん他言は無用に願いたい。三つの秘訣、いわばベストスリーの第一は○○○、第二に○○○、第三は“世の中をまるごと笑い飛ばす”ことである。この第三の秘訣の初歩的な例としてたとえば次がある。

 エー、さてLSFの皆さん、世の中十人十色とか申します。人はそれぞれみんな顔が違うように、性格はもとより、体格、神経、内臓、みんな違います。ひとつLSFの幹事諸侯を例に挙げましょう。ひとりひとりが他の幹事とは違う特徴をそれぞれ備えています。ただ違いを見抜く眼力のない者にはそれがわからない。そこでその眼力を身につけるために、今日はまず易しい練習問題を解いてみましょう。

問題:
 次に示すのは「図書館サポートフォーラム」の幹事十六名全員の氏名とpsychosomaticsの創始者シェルドンが考案した、人それぞれの違いを瞬時に見分ける方法のうち、LSFの幹事諸侯にとてもよく当てはまる「違い方」十五種類である。
 最初に示す例に従って、幹事諸侯の日ごろの言動から明らかな、各人にあてはまる「違い方」をいくつでも選んで、その幹事名の前の番号を「違い方」の末尾の下線上に記入しなさい。

LSF幹事の氏名(五十音順):
(1)石井紀子 (2)井上如 (3)大串夏身 (4)太田泰弘 (5)大高利夫 (6)木内良一 (7)京藤松子(8)古賀節子 (9)坂本義実 (10)末吉哲郎 (11)関野陽一 (12)戸田光昭 (13)平井紀子 (14)山内明子 (15)山崎久道 (16)陸川キヨシ

例:段違いの(2) 桁違いの(2)

「違い方」十五種類
心得違いの____  筋違いの____  見当違いの____  勘違いの____  
見込み違いの___  日外の_____  お門違いの____  すれ違いの___
畑違いの_____  はき違いの___  腹違いの_____  刺し違いの____ 
お宗旨違いの___  埒外の_____  場違いの_____  

 いかがでしたか。下線部分が短い場合はいくらでも長くしてください。現行幹事の約半数は心得違いだという事実を正しく指摘したければその幹事諸侯の番号をすべて「心得違いの_____」の下線上に記入すればいいのです。
 さて、出題者――つまり違いの判る男――からついでに一言申し添えます。今ご紹介したのは、歳をとらずに長生きする方法として、“世の中をまるごと笑い飛ばす”ことの有効性を示す例ですが、ひとつだけ大切なことがあります。それは、同じ笑うにしても寄席へ通ったり吉本興業さまさまだったりして、人から笑わせてもらわなければ笑えない人は“世の中をまるごと笑い飛ばす”資質に欠けるという点です。“世の中をまるごと笑い飛ばす”ためには、「人の世の本質は滑稽さにある」という世界観が大切です。近頃の例で言えば、少子化対策とか、小学校から英語を教えようとか、笑い飛ばすタネには事欠きませんが、それを言い出す当人はマジメで、決して人を笑わそうとして言っているわけではありません。「人の世の本質[そのものが]滑稽なのだ」という世界観を会得すると、世の中何もかも笑い飛ばさずにはいられなくなります。他人が笑わせてくれるのなど待っていられなくなります。それが“歳をとらずに長生きする”秘訣だと言うべきでしょう。
 ところでせっかちな読者諸氏は、“わかった、わかった。第三の秘訣はわかった。ところで歳をとらずに長生きするもう一つ上の第二の秘訣、あるいは更にその上の第一の秘訣を教えろ”とせがむかもしれません。それに対する答えはハッキリしています。曰く“冗談じゃない。そんなことただで教えられますか。第一それは文字や言葉にならない。以心伝心、拈華微笑です。筆者の日ごろの生きざまをよく見習って、あとは自分で考えなさい”が答えです。
 エッ、何? それじゃあ第四の秘訣でいいから教えろですって? それなら教えます。歩くことです。そうしたら歳をとらずに長生きします。早い話、筆者がその生き証人です。理由も簡単です。人間は二足歩行をする動物だからです。

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ライブラリアンは宗教家?

末吉 哲郎

 東京国立近代美術館の琳派・RIMPA展に感銘を受けた丸谷才一氏が、これを企画・実行した学芸員を評して、第一に美術史学者、第二に美術評論家、第三にコレクター、第四にジャーナリスト、第五に興行師としての資格を兼ね備えたやりがいのある職業として絶賛している。(朝日新聞〇五・一二・〇六)
 たしかに展示はクリムトではじまり、光琳、宗達を経て大観、古径と続き最後に梅原、マチスなどと続く大胆な解釈と展示はユニークで各方面からの評価を得た。
 丸谷氏の評はこの展覧会を推進してきたキュレーターを一般に分かりやすい切り口の表現で賞賛しているのあろう。
 さて、これに対し学芸員と共に美術館を支えている図書館司書の世間的な評価はどうであろうか。
 丸谷才一氏にならい美術館図書室を足場に活躍する司書を一般的な表現で評価するとつぎのようなことになるのであろうか。
 第一に美術関係図書、図録、古典等に通暁し、書誌・解題で一般を啓蒙する書誌学者。第二に情報資料を収集、分類整理して蓄積する情報蓄積マイスター。第三に各種データベースを縦横自在にあやつるデータベースコンダクター。第四にどんな難問奇問にも根強く調査し、情報サービスを行なう情報提供魔術師。第五に外部図書館、情報機関のたくみな連携で力を発揮するネットワーク達人。そして第六に気むずかしくわがままな利用者に対しても性善説であまねくやさしく対応する宗教家などはどうであろうか。
 ともあれ、学芸員と司書は美術館を支える両輪であるので手をたずさえてがんばって欲しいと思う。学芸員の活躍を身近で見ているとさきの丸谷氏の言ではないけれど、幅広い仕事に取り組んでいる。展示企画、出展交渉、予算要求、設営、図録執筆、広報など、最近では担当展示会のスポンサー探しもその役割の一つになってきている。テーマによっては海外にすっとび、作品の収集や出展交渉をしたり、大使館に出かけ協力を呼びかけることなどを日常的に行なっている。
 東京都写真美術館の事例ではアメリカの一九三〇年代恐慌時のニューヨーク移民の悲惨な生活や学校にも行けず長時間労働を強いられている子供達の実態を写真で訴え、改善の施策を促すのに力のあったドキュメンタリー写真を組織して「明日を夢見て―アメリカ社会を動かしたソーシャル・ドキュメンタリー」展を海外で初めて実施したが、このプロジェクトは女性学芸員が一人でアメリカ各地の美術館や議会図書館をかけ回り実行した。
 一方美術館司書もがんばっている。東京都写真美術館図書室は、学芸員の調査活動を支える他一般に公開し、年間三万人の利用者の対応に追われている。外部からの蔵書検索システムも公開しているが、東京国立近代美術館や西洋美術館などとの横断検索ALCにも近く参加する。
 新しい試みとして、各学芸員毎の特色を生かしたキュレーターチョイス展の実施に併せて、ライブラリアンチョイス写真集展を立ち上げ一般に公開する。
 すでに各展覧会毎に関連図書資料や図録のレファレンス展示を行なっているが、さらに図書室やアートライブラリアンとしての独自の活動が期待されている。
 図書館や美術館では目下指定管理者導入問題等で揺れ動いているが、その制度の是非はともかく、それぞれの活動が一般市民の支持を得て、永続的な地域社会の文化施設として存在感を発揮して行くためには、キュレーターやライブラリアンが力をあわせて資料収集や質の高い市民サービスを展開することが今求められているのではないだろうか。そのためには専門家としての狭いカラに閉じこもっていないで、世間に判りやすい形で評価を得ることが大事なことであろう。(〇六・〇五・二五)

(本稿は「アート・ドキュメンテーション通信」六九号(〇六・〇四・二八)に執筆したものに加筆した。)

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後記
 「ふぉーらむ」第3号をお届けします。
 創刊号(2004年11月)28頁。第2号(2005年6月)64頁となり、第3号は72頁とすくすく若葉をもやし成長しています。
 第8回サポートフォーラム賞授賞式に於ける井上如委員長の講評は圧巻です。ぜひ、委員長独特のシニカル・スパイスを味わってみて下さい。
 会員交流誌としては、体裁などを含めまだまだ模索しているところですが、今号よりも次号がさらによい冊子となるよう、皆様のご投稿をよろしくお願いします。
(森本)

 「赤れんが棟を歩く」(高山京子氏・神野潔氏 著)は『刑政』116巻(9〜11号)に掲載されたものを転載しました。数年前のLSFでも見学に赴きましたが、丸の内散歩の1コースとして見学されることをおすすめします。
(岡本)


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