第 4 号 2007年7月5日発行 発行人 末吉哲郎 発行所 図書館サポートフォーラム |
目 次
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《巻頭特集》 第9回 図書館サポートフォーラム賞受賞式於/2007年4月13 日(金) 1.趣意説明(末吉 哲郎/代表幹事) 3.受賞の言葉 【水谷 長志 氏/東京国立近代美術館主任研究員】 【松岡 資明 氏/日本経済新聞 文化部編集委員】 |
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俳句八吟山内 明子桶の浅蜊おどろかすなよ舌かむから すっきりと終れよ恋と春の風邪 黄金週間胃のピロリ菌除菌中 子に乳を吸はるる快楽明易し 汗かかぬ修行したりと老妓云ふ 石鹸に貼ってせっけん涼新た ひややかに死せる人起く暗転に 鳥渡る鳥より高く住ひをり |
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小学生時代の”本の記憶”―『偕成社五十年の歩み』を参照して植村 達男 小学生時代に「お世話になった本」に、偕成社の偉人伝シリーズがある。黄色いカバーのかかった偉人伝。今でも、あの本の手触りを思い出す。10冊以上は、愛蔵していた。先般、偕成社の社史『偕成社五十年の歩み』(1987年刊)を頂戴して、過去の記憶を確認する機会があった。すると、”偕成社の偉人伝”は通称で、正式名称は”偉人物語文庫”と称することが分かる。その第1巻は、1949年(昭和24年)4月に発刊された『ベーブ・ルース』。著者は沢田謙であった。次いで年内に『リンカーン』、『福沢諭吉』、『コロンブス』、『エジソン』が刊行されている。当時の日本は占領中。このラインアップから、見え隠れする”アメリカの影”を読み取ることができる。5人のうち、3人はアメリカ人だ。加えて、コロンブスは、”アメリカ大陸発見者”である。そのような見地に立つと、コロンブスもやはりアメリカ関係者。このシリーズの最初の5冊のうち4冊(80%)までがアメリカ関連本ということになる。少々どころか大いにバランスを欠いている。そう批判されてもやむをえない。 沢田謙『エジソン』1949年(昭和24年)刊 このリストを見て、色々なことに気づく。先ず、沢田謙の著書が多いことである。『偕成社五十年の歩み』で、沢田謙は「外交、政治評論家」と紹介されているのみ。詳しいことはわからない。ところが、たまたま神戸の一栄堂書店から送ってきた古書目録(2006年5月号、29ページ)の中に、戦前期の沢田謙の著作を2冊発見した。書名は『ヒットラー伝』(1934年、講談社)と『ムッソリーニ伝』(1935年、同)である。古書価は3、000円と2、000円。ヒットラーの方が1、000円高い。沢田謙は、戦前にこのような本を書いていたのだ。チョット驚いた。その後、沢田謙に関する新たな情報を得た。須賀敦子の『遠い朝の本たち』(2001年、ちくま文庫)を読んでいたら、この沢田謙は『プルターク英雄伝』の編著者として登場している(187ページ以下)。須賀敦子(1929年―1998年)の少女時代に読んだ本として出てくる。『プルターク英雄伝』が出版されたのは戦前または戦時中のことであろう。話題をもう一度伝記を書いた著者に戻す。沢田謙以外の著者で、注目すべき人物がいる。後に『眠狂四郎無頼控』等の剣豪小説や『図々しい奴』等の現代小説作家として有名な柴田練三郎がチャーチルの伝記を書いている。柴田練三郎は、『イエスの裔』(1951年)で直木賞を受賞している。また、マゼランの伝記を書いているのが丸尾長顕。多彩な人物で作家としても活躍したが、日劇ミュージックホールの演出家というと分かるかもしれない。『源頼朝』を書いた浅野晃は、プロレタリア運動に参加した共産党員。獄中で転向した。そんなことを知ったのは、ごく最近のことである。 |
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図書館の風景近江 哲史 1 「著述業」 2 本の巻頭に騙されるな 3 創造的なライブラリアンは? |
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ぞうきんと辞書三浦 邦雄 先日5月上旬、図書館とともだち・鎌倉(略称/TOTOMO)のメンバーと大船の松竹撮影所跡地に移転した緑に囲まれた真新しい鎌倉女子大学キャンパスを訪問し、その中央図書館を見学させていただいた。TOTOMOは市民による鎌倉市の図書館の応援団で、市民が主役の理念のもと地域図書館をサポートする幅広い活動を行っており、私もそのメンバーに入っている。このTOTOMOは2001年に第2回図書館サポート・フォーラム賞をいただいている。同年の受賞者には書誌の書誌を構築された深井人詩さんが居られた。 さて、鎌倉女子大学は家政学部と児童学部の2学部から成るいわば単科大学だが、正門ゲートをくぐり菩提樹の並木道の正面に堂々たる図書館棟がある。鎌倉市図書館と相互貸借を実施しているが、卒業生以外は一般には開放されていないが、スペースのゆったりとした綺麗な図書館であった。一言で言うと若い図書館である。蔵書数は11万冊と少ないが倍増計画途中のことであった。参考図書類は教養科目と専門科目と別々に配架されていたのが特徴的であったが、日外アソシエーツのものは少なく日外ファンとして未だ営業余地ありと感じた。若いということは蔵書の深みがないということであるが、でもその若さには基本的な図書は揃っており、環境の良さと相俟って学生たちは本当に幸せだと思った。勉強には図書館でもプライヴァシーと読書に快適な環境が必要でこの若さ・美しさは古い図書館ではなかなか味わえない。訪問するのが楽しみでないと図書館は行かなくなるものだ。 鎌倉女子大学の建学の精神・教育方針に「ぞうきんと辞書を持って学ぶ」と言う言葉があり、その精神が学生たちに教育され実践されていることを知り感心・感動した。ぞうきんは今ではダスキンに変わってしまったが、ぞうきんは汗を流すこと、辞書は常に初心に帰り白紙で辞書を引くこと、ぞうきんは勝手に動かないから、自分で持って拭かなければ役割を果さない、同時に辞書も自分で分からないことを積極的に調べなければ意味がない、どちらもただのものに過ぎなくなる、大切なことは自分で動いてそれを経験として生かすことだというような精神だそうだ。見事に知識と経験が一体になる言葉である。日外アソシエーツ ファンとして辞書・レファレンスツール専門出版社の精神に近いのではと思う。 なお、鎌倉女子大学は一般向けの生涯学習講座も活発に開いており、そのなかの一つに『吾妻鏡』を読む講座があり私も少しずつ読ませていただいている。鎌倉の2大史料(アーカイブ)は『吾妻鏡』と『太平記』であるが、丁度15―17世紀のヨーロッパの中世・ルネッサンス時代がそうであったように、この2書を通しても中世(鎌倉・南北朝時代)は実に面白い時代と思うようになって来た。歴史は現代に至るまで戦争に次ぐ戦争であり世界は少しも変わっていないと思う。 |
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図書館友の会にかかわって岡田 恵子 |
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一九九二年九月にアメリカを訪れた。デンバーで開かれた、図書館と情報技術協会(LITA)全国大会に出席される牛島悦子先生(当時白百合女子大学)のお誘いを受けて、同行させていただいた。その折、公共図書館としては世界で最先端の情報システムを構築しているというコロラド州のコロラドスプリングス市立図書館を見学した。 |
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建物や机などの備品はなんら新しくはなかったが、利用者用の端末が古い木の台の上に並んでいて、ハワイの図書館の蔵書まで検索できるのに驚いた。十年先の日本はこうなるのかと、未来を垣間見る思いを浮かべたものだった。その図書館の一角に、友の会と大きく書かれたカウンター(写真参照)があった。退職した職員たちがその席に立ち、利用者や見学者の案内を、手のたりない職員を助けて行っているという話が印象的だった。 〈日仏会館図書室友の会の成立ち〉 〈その後の歩み〉 |
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現在は年三回、主として広くフランス文化、政治、経済、社会、思想など、それぞれのテーマは専門的でも、公開の講演会で分かりやすく、たいへん親密な雰囲気の中で行われている。戸田光昭先生がかつて本に書かれた”情報サロン”の雰囲気がかもしだされる。現在は日仏会館の都合により会議室で行っているが、講師が作成する資料のほかに、演題関連の図書を回覧、参考文献をできるだけ配布している。 |
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また、図書室の紹介も付け加える。講演要旨は年一回発行される”友の会通信”に掲載し、友の会のホームページにも載せている。後者には、この六月で三十五回目になる講演会の一覧も載っている。 〈雑感〉 友の会ホームページ |
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教師・学生・役員かけもちの記河塚 幸子 ひょんなきっかけから長年勤めた会社を5年前に辞め、会社中心生活からどっちつかずのかけもち生活をしている。大学生と大学講師、社団法人の役員と3つの顔を持ち、時計をみながらそれぞれの顔に変身している。電車で移動中にその気持ちの切り替えをしているのだが一番メインになる本当の自分は一体どれか? 窓ガラスに映る姿を見てふと考えることがあるが分からなくなる。それぞれがその場に浸ると楽しいし、没頭してしまう。 仕事としての大学講師は非常勤という非常にファジーな立場で当初はカルチャーショックの連続だった。学生や仕事に関する情報が少ない、事務的な確認や案内が不充分、自分の拠点となる居場所がないので身の回りのかばんやコート、テキストや配布資料など一切合財の大荷物を全部自分で講義室へ運ばなければならない。一般のセミナー講師をすれば誰かがすべてセットしてコンピュータの動作確認も済んで丁重に迎え入れられるのにこれほどまでに劣悪な仕事場があるのかとつい会社時代の常識と比べてしまう。中でも研究費や書籍代が一切支給されないのでブラッシュアップは全部自前で僅かな報酬の中から捻出しなければならない。それと病気や怪我をすれば最悪、講義のピンチヒッターの登板はないので、高熱が出ても足を引きずってでも休めない。1コマ90分の講義に何時間もかけて準備して講義に臨んでも、だらだら遅れて教室に入ってくるのやおしゃべりを続けるのやそれを厳しく注意しないことにクレームをつける学生やらマナーまでいちいち教えないといけないのかと深いため息がでる。社会に出たら困るのにと思いながら時々注意する。 学生としては夜間大学なので現役世代が8割、社会人が2割の構成でバラエティに富んでいる。親子ほど年齢差のある中で上手くコミュニケーションが図れるか不安であったが、会社時代よりもその差を感じない。お互いに気軽に話ができノートの貸し借りや座席の確保や試験対策を一緒にやっていける。なんといっても英語や数学は現役の若い友人にお世話になることが多かった。不思議なことに一緒に勉強すると消えかかった記憶がよみがえり、数式の意味が理解できるようになったことがある。記憶力や新しい事柄の吸収力は衰えるが、考える力はいくつになっても余り変わらずいつまでも現役であることがわかった。大学で学ぶことが楽しいと感じている。 教える立場と教わる立場を同時に体験することはお互いの気持ちが理解できていいのだが、授業のスケジュールが大体よく似ているので、試験問題を作りながら自分の受験対策やレポート課題をしなければならず、パニック状態になる。試験の真っ最中に成績をつけるのだけは早く逃れたい。 昼も夜も大学という若いエネルギーに満ち溢れた環境であるが、本で重くなったカバンを肩にかけ軽装で時間におわれる日々から脱出し、おしゃれをしてシックな大人の雰囲気が漂う世界への郷愁も時折湧いてくる。 |
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暮 靄大谷 明史 ――「図書館か、好し」と (某氏の回文) 日が傾きかけている。図書館の喫茶室。着古した服の老人が、直ぐ脇の席から話しかけて来た。此方も着古した服の老人であるから、風采の度合は似たようなものである。 ――四六時中休みなく泳ぐ、と聞けば、まあ「御苦労様」と犒ってやりたくなります。でもね、人間だって同じ事だと思いますよ。いや、慥かに人間は休息します。睡眠も摂ります。眠っている間、「自覚的な意思で考える」という意識作用は休止します。然し、自らの自覚的意思を超えた、無自覚的意識はその間にも活動している事でしょう。自覚的意識の底には、水面下の氷山のように、巨大な無自覚的意識が不断に活動しているのだ、と思いますよ。尤も、水面上と水面下との境界は、氷山みたいに鮮明ではないようですが。何故そんな風に思うのか、と問われても、学者のように巧く説明できませんが……。まあ、そう思ってしまうから、そう思うのです。勿論「そう思う」と言うのは自覚的意識の範囲内での話です。 老人の言葉は延々と続く。別段此方の相槌を求める気配は無い。何時しか眠りに落ちた。 夢の中で自宅に居る。家人は出掛けているのであろう。静かな夕刻。有難い事に、急ぎの宿題は無いようだ。珈琲でも沸かすか。 「(自覚的)意識活動(思考)―――著作物―――――出版―――図書館 何やら彼方から低い声が聞える。紗を透かしたような別次元からだ。例の老人の声だ。実の世界から微かに伝わって来たらしい。 ――――人が自らの意識内容を表現する時、その意識内容を其の侭言葉にする訣ではないでしょう。自ずと受容する側の人の意識を考慮して、表現に補正を施す事でしょう。行為の記録の場合は、作成時に想定された受容者と、アーカイヴズでの閲覧者とは異なるので、単純ではありませんが、当初の受容者(その行為の関係者)の意識を考慮して表現に工夫がなされている事は十分あり得ます。表現結果に内在する虚と実との識別は、受容者の見識、批判能力に委ねられる事になります。然し、不完全であるのは承知の上で、人は「現在」と言う時間の枠組みを超えたいのだ。「現在」とは絶えざる顕現であると同時に、絶えざる消失だから………… 自宅の居間の情景が急に薄らいで、我に返る。図書館の喫茶室である。隣席で話し続ける老人の外に人影はない。窓外に闇が立ち込めて来た。程なく閉館時刻だ。 卓上の伝票を掴んで立ち上がる。老人の声は途切れない。 (平成十九年五月) |
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図書館の新しい活動としての「発現」―収集と蓄積と検索から表現への飛躍―戸田 光昭 一、はじめに 二、情報収集と創造活動の「見える化」 三、図書館の役割の変遷 五、新しい図書館の姿―国立新美術館アート・ライブラリー―への期待 |
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表紙画事件末吉 哲郎 |
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渋沢栄一記念財団の機関誌「青淵」〇七年五月号の表紙に小生の油絵「中之島公会堂」をのせていただいた。同財団のスタッフがグループ展に出品した小生の絵を見て、推薦していただいたのがそのきっかけである。 この「青淵」誌、調べてみると創刊は一九四九(昭和二四)年であって掲載誌は六九八号を教えているが、その前身の「竜門雑誌」は創刊が一八八六(明治一九)年であって通算号数は一三七五号に達している。わが国で最古の総合月刊誌は「中央公論」(前身は反省会雑誌)といわれており、その創刊は一八八七年であるからこれに匹敵する歴史をもった月刊雑誌である。 |
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その歴史ある雑誌の表紙に小生の絵をのせてもらうのはそれだけで光栄であるが、毎号の表紙に登場する絵は財界人で絵を趣味にしている方がよく出品していることでも有名である。調べると、小山五郎、藤山愛一郎、白根清香、安西 浩、酒井杏之助などの経済人や銀行トップの方々がずらりと並ぶ。ただしプロの画家は登場していない。それがこの雑誌の方針のようである。 この渋沢氏に関する著作・伝記資料は「日本の実業家 ―近代日本を創った経済人伝記目録」(日本工業倶楽部編、日外アソシエーツ 二〇〇三.七刊)に詳しいが、併せて一九一点が紹介されている。明治・大正・昭和そして平成の現在まで研究家があとを絶たないのは他の追随を許さず、その偉大な足跡は日本資本主義の発展そのものである。 |
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森有正の周辺―母、伯父―恵光院 白はじめに 大分以前から筆者は、森有正の年譜、文献を編んできたが(後注一二)、その途上、当然ながら縁者など周辺の事情も調べてきた。拙文もそのひとつであり、あるまとまりになったので以下のように綴り、諸賢にご高読を願う次第である。 一九八六(昭和六一)年九月、『空の先駆者・徳川好敏』が奥田鑛一郎氏著で出版された。筆者の住む所沢市に縁の深い好著である(以下『同前書』と略記する。後注一A参照)。『同前書』は、徳川好敏についての著者・奥田氏の地道な調査や資料の読み込みが窺われ、好敏の若き日から晩年までの生涯が活写されている。 はじめに、双方の書からの主要人物を素描してみよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ これら兄妹九人は、高田の馬場の広い邸宅(現在のJR高田馬場駅付近ではなく、早稲田大学の現・中央図書館(旧安部記念球場)の北東側、都電荒川線の早稲田停車場あたりから明治通り方向への一帯)で生を受けて育ったものの、家族の不運に見舞われる。正確な年代は先の『同前書』、『同後書』には示されていないが、おそらく一八九二(明治二五)年から一九〇二(明治三五)年にわたって、この名門徳川家は当主篤守の不祥事で一家は崩壊する(『同前書』。以下、後注四でも確認)。この事件について『同前書』は、篤守の性格が大らかであったこと、米国留学中に自由平等の考え方になっていたこと、それゆえ門地や爵位(伯爵を授けられていた)、名誉欲、物欲などに淡泊であったことなどを挙げている。これらが災いして訴訟事件に陥れられ、多大な債務を負う羽目となった。結果として、三万数千坪という家、屋敷は人手に渡り(一八九九・明治三二年、同前)、篤守は爵位返上(同年、同前)、徳川一門から大非難を受けることになる。特に妻の実家・小笠原伯爵家の強硬さのゆえに妻・登代子は実家に戻され、夫妻・子供ことごとく生き別れ、篤守は一言も弁明せず、裁判後、徳川の名を汚さぬようにと、某家へ養子手続き後に改姓、禁固刑に服したという(一九〇二・明治三五年、後注四)。長男・好敏の双肩に一家の全てが負わされる事となった、と記されている(『同前書』)。 さて徳川好敏の一身上の事は別にして、公的な経歴を『同前書』から追ってみよう。彼は航空・技術将校の道を直進する。軍事気球隊を経て一九一○(明治四三)年五月〜一○月の間、飛行機操縦術修得、飛行機の選定、同購入の命を帯びて僚友日野熊蔵大尉と共にヨーロッパへと旅立つことになる。旅を前に律儀な好敏は、気難しい徳川家宗家(徳川の世を倒した新政府、いわばかつての敵方に参画する事への非難か、と筆者推測)や一門に説明・説得に回る。最後に、 さて一家崩壊の後、徳川好敏の四才下の妹保子は、長姉(後の朽木夫人)に誘われて、ブラウンロウという英国の宣教師婦人の営む女子寮に寄宿することとなる。この女子寮の所在地は不明。武蔵野の雑木林、人里離れたところ、人喰川[現・玉川上水のことか、引用者]のほとりの西洋館、と『同後書』は記している。この青年期の保子はピアノやヴァイオリンを学び、その淋しさを慰め、またこの時期にキリスト教の信仰に入った、という。 ここで保子の夫・森明を紹介してみたい。 さて、兄・徳川好敏が所沢を中心に大いに活躍している時期、一九二五(大正一四)年に、妹・保子の夫であり、有正、綾子の父である明は三七才で病没する。結婚して僅か一四年であった。続いて一九二七(昭和二)年の金融恐慌、第十五銀行のモラトリアム(預金封鎖、支払い停止。同銀行は俗称・華族銀行、以後、何度もの分割、合併ののち、現・三井住友銀行となっている)に因る森家の家計破綻の危機。まるで好敏、保子兄妹たちの若き日の家庭崩壊の如きものが、その甥・姪の青年前期の多感な時期に再来した(?)観があった。事実、家庭の崩壊は免れたものの、森保子の一家は『同後書』のタイトル、『…淀橋の家』すなわち、現在の新宿の高層ビル群のすぐ南地区にあった自宅を他人に貸して、東京市内や鎌倉などを数度にわたって転居せざるをえなくなった。高齢の姑・寛子、病弱な未亡人となった保子、未だ学齢にある病弱な長男・有正、ガンバリ屋の綾子。四人とも定職はなし、従って定収入もない。しかし保子たちは、折々に様々な人々からの好意を受け(姑・森寛子の初婚時の子息からの援助もあったとされる。後注一一参照)、自らも他に施し、つつましく暮してゆく。そんな日々の生活の中で、保子の父・篤守についての、兄・好敏についての挿話が語られる。『同後書』一五四頁には、 一方、妹・森保子の言葉で語られた当の兄・徳川好敏の出世は順調である。すなわち、『同前書』によれば、一九二六(大正一五)年、航空委員会議出席のため渡仏、帰国後、陸軍航空大佐昇任。一九二八(昭和三)年、男爵を授けられ、翌一九二九(昭和四)年、所沢陸軍飛行学校教育部長、同一九三○(昭和五)年陸軍少将。一九三一(昭和六)年には長く所沢に住んでいた(家族が所沢にいたか否かは、これらの資料からだけでは不明)ものの、三重県度会郡、明野原にあった陸軍飛行学校の校長として赴任する。その地に家族も転居し、土地の人々はそこを徳川山と呼んで親しんだという。 兄・徳川好敏が再び現役軍人として召還される数ヶ月前、つまり一九四三(昭和一八)年一二月、森保子の一家は”淀橋の家”を売って、長野県松本市に疎開する。姑・寛子はその年の一一月、天寿を全うし(八三才)、病弱であった長子・森有正は成人ののち元気をとりもどし、妻子を得て東京帝国大学での教職への道にあり、次子・綾子も関屋光彦と結婚し、一児をもうけていた。当時太平洋戦争は既に三年目に入り、東京では強制疎開が始まっていて、森有正も一家の家長の立場にあり、また住居、身辺とは別に、所属の東京帝大・仏語仏文学科の膨大な量の図書群を、地方の然るべき安全な場所(↓松本)に、搬送、保管する任務を負っていた。 一方、妹・森保子も長野県松本市で敗戦を迎え、すでに孫と過ごす身となっていた。以後一○年間を簡単に記すならば、長子・有正は一九四八(昭和二三)年東京帝国大学[昭和二四年以後は東京大学]助教授を経て、一九五○(昭和二五)年、フランス留学に旅立ち、数年後、パリ滞在のまま東大を辞職する。彼は一九五五(昭和三○)年に一時帰国するものの、母・保子以外の有正の家族は松本を離れ上京する。程なく有正夫妻は離婚する。保子の内孫のうち、有正の次女はパリの有正の許へ、一男は有正のかつての妻のもとへ去り、保子は一人、松本に残される(筆者推測。年長の孫は一九四五年頃、幼くして死去)。森保子が松本に住んでいる間、手塚縫蔵の主宰する松本日本基督教会(当時もその後も永く建物は無く集会のみがあった。のちに和田正氏が牧師。同氏への筆者のインタビューによる。現在は日本基督教団・松本日本基督教会)に参集していたであろうか、なかろうか。 この辺りで、兄・徳川好敏、妹・森保子を並行させてその生涯を追うこの小文の筆を擱きたいと思う。この兄妹の間の行き来や手紙のやりとり、あるいは直接の情感はもはや求めえない。前者はいわば青年期の不遇から劇的な晩年(と言う程でもなかった、と本人は言うであろうが)を全うした。後者は若き日の不如意から脱し、幸福な時を家族と共にあったが、戦後の混乱の中、子供達、孫達への思いや他に言えぬ哀しみが推測される。双方は、軍人、家庭人の違い、男と女という違いはあるものの、信仰に身を置き、周囲の安寧を願いつつ、与えられた場面、戦争という時代、戦後という激変の時を生きた。二人は、右面と左面、或いは名と実といった物事の幾つかの顕れ、いわば姿や影など、この時代の多くの人達のなかの、或る生き方を示していたと言えないだろうか。 拙文を結ぶにあたって一言添える事を許されたい。筆者は埼玉県所沢市の航空公園に面した中層住宅の一室で、拙文を認めた。徳川好敏が悪戦苦闘しつつ、大空への希望をはぐくんだかつての所沢飛行場の、軍事の時代から平和の時代へと生まれ変わった、実にその地のすぐ傍らである。市役所の窓からは遙か東方に新宿の超高層ビル群が遠望される。旧淀橋浄水場だった一帯で、その南面に”淀橋の家”が在った。現在マンションが建っている。航空公園駅(かの名機YS・11が駅前広場に設置、展示されている)から北西に位置する現・入間基地からは時折、未だなお同機が飛び立つ爆音が聞こえてくる。なお昨年、二〇〇六年は森有正没後三○年であった。様々な感慨が涌いてくる次第である。 後注一A―奥田鑛一郎著 『空の先駆者―徳川好敏』 以 上 注―拙文は一九八八(昭和六三)年頃素稿をしたため、以後随時、調査、補訂加除につとめていたが、二〇〇六(平成一八)年春より、新資料等を加えて大幅に改稿し、完成したものである。 |
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二足歩行井上 如 年がら年中ウオーキングに明け暮れていると、上半身よりは下半身、それも一番下の足の裏に関心が偏る。反対の、一番空に近い頭の方は、中身もカラッポ、外から叩いてみても、スが入ったというか、スイカで言えばタナオチした、いかにも軽やかな音がするからやりきれないが、それだけ足にかかる荷重が減ると思い、諦めることにしている。 |
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後記
創刊号はおそるおそる初めの一歩を踏んだ感じでした。2号もまだよちよち歩き。3号は「同人誌は3号まで、これで終わり」と、さっぱりしたものでしたが、今4号となると、同人誌を脱けた黒光りする柱のような文体の集合と相成りました。皆様、ご感想はいかがでしょう。 制作する方も全て手作りで、本作りはかくあるべしと応援しています。 この先、この束縛のない「ふぉーらむ」の知性はどこへ行くのでしょうか。読者の皆様の寄稿、いつでも歓迎しています。(森本) |
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