ふぉーらむ第2号  第 2 号 2005年6月15日発行
発行人 末吉哲郎
 発行所 図書館サポートフォーラム

目 次

《巻頭特集》 第7回 図書館サポートフォーラム授賞式

【末吉哲郎 代表幹事】
 図書館サポートフォーラム賞表彰式でございますが、表彰趣旨について一言ご説明させていただきたいと思います。
 今回で第7回の受賞ということでございます。後ほど受賞理由については井上表彰委員長の方から詳しくご説明いただきますが、実は我がサポートフォーラムのサポートフォーラム賞は他の図書館団体その他の表彰とちょっと趣向を変えようということで、長年こつこついい仕事をやってくださったというのが表彰というのは結構ですが、今回の場合はとにかくOB会でございますから、みなさん図書館にいるときに一所懸命やったけど、こういうことも本当はやってみたかったという夢をかなえてくださったような方を重点的に……ということでございます。
 そういう意味でユニークで、従来やってこなかったような事業でも果敢に取り組まれた、そういう方、あるいは国際的に、従来鎖国状況だったわが図書館界で、広く世界に目を向けた方、あるいは従来なかったような図書館の団体を作り上げた方、あるいは従来図書館の経営という面――なかなか図書館司書というのはそういうのが嫌いな人が多かったものですから(笑)――大きい目で図書館経営を新しい観点から見直して、それを実行しようという方を表彰しようということであります。
 そういう意味で今回もそういうことを中心に、立派にかなった方を表彰したいということでございます。後ほど井上委員長の方で講評いただきますけれども、受賞者以外にでもニュースレターでもご案内いたしましたが、今回はたくさんの推薦、ご応募いただきまして大変ありがたいことでございます。
 以上表彰の趣旨について若干ご説明いたしました。今日は時間がたっぷりあるようでございますから、後ほど表彰者の方からご挨拶をたっぷりいただきたいと思います。

【井上如 表彰委員長】
 表彰委員会の井上と申します。今日はみなさんお忙しいところ表彰式に多数お集まりいただきましてありがとうございます。私にとっては年に一度の野暮用でございまして、これからしばらく時間をちょうだいして報告をさせていただきます。
 私が言うのも変なんですけどね、去年あたりから皆さん方のご努力で大変いい候補がご推薦いただけるようになりました。その前がどうだったかっていうのは、今は言えないですけども……。とにかく今年は本当に優れた事例をたくさんご推薦いただきました。表彰委員会のほうでも大変迷い、今に至るも迷っております(笑)。そういうことが大前提としてありまして、実は表彰委員会が終わった後、雑談になりまして、委員のみなさんが何を言うかと思ったら、”いや自分としては実は当然これこれが受賞するはずだと思ったよ、ところが結果としては次点になっちまったんでおどろいた”、とそういう話なんです。ひとりひとりがみんなそういうことを言い出したんです。確かに具体的には申上げないにしても、今回受賞された御三方と惜しくも入賞を逃した方々とは隔たりはないと申上げてよろしいと思います。どれもこれもすばらしい候補だったのですが、たまたまこれは投票によって決する以外に方法がございませんものですから、投票によって票の差がほんのわずかですが出ました。代表幹事をはじめとし、委員の意見を総合致しますと、これはやはり残念ながら表彰とならなかったけれども、やっぱり惜しくも入賞をのがした候補についても紹介すべきじゃないかという意見が出まして、これは誠にもっともと私も思いました。お手元の第7回図書館サポートフォーラム賞授賞理由という資料をご覧下さい。今日の会のために作っていただいたんですけど、資料の2枚目に第7回図書館サポートフォーラム賞ノミネート(個人/機関)となっております。つまり惜しくも受賞はのがしたけれど、こういうものが候補としてあげられ対象になった。そのすべてをぜひ皆さんにも見ておいていただきたい。
 したがって御三方について簡単に触れる前に、私の方から更にこの中から残念だったなあと私自身思うものを二、三紹介させていただきます。
 この中で2番目の、大谷明史氏、企業史料協議会理事・元三井銀行調査部……これは『企業史料協議会20年史』というたいへん立派な書物をお作りになりましたし、別の角度から企業史料協議会についての表彰としたい……というご意見もございました。しかしどちらにしても選に漏れてしまったのは、皆さんご記憶だと思うんですが、去年、社史関連で経団連の村橋さんが受賞されましたので、暗黙のうちに委員の中で同じ分野から2年続けて出すのはいかがなものかという気持ちが働いたんじゃないかなと私は思っております。もしそうでなければこれは受賞されたと思います。そういう意味では推薦をいただくときにですね、過去にどういう受賞歴があるか、今まで第6回までのどういう受賞があるかということを見ていただきますと、なるほど残念だったなあとご理解いただけるんじゃないかなあと思います。
それから神奈川県立川崎図書館ですけども、これももうみなさん当然ご存じのことですね、神奈川県ということを考えれば、ひとつの県で2館目の県立図書館を作ったということ自体がなかなか英断であったろうと思うんです。そして案の定、その後の神奈川県立川崎図書館というものの活躍をご覧になれば、もう今や横浜なんてなくたっていいようなものなんです(一同笑)。そういういわば神奈川県のよさというもの、横浜みたいなものはどの県に行ったってあるんですよ、皆さん笑うけど、川崎みたいのは他にありますか? ないでしょう。やっぱりその辺の自覚があって、そしていろいろな方達が支えてきて、川崎はあんないい仕事をしてるんです。これが誉められて当然なんですけれども、惜しむらくはピカ一の人がいないんです。人がいない。もし川崎を推すならこの人だよという人がいない。惜しいことにですね、これはさっき代表幹事もおっしゃったけど、誰かしかるべき人でもいてくれて、その人ががんばった川崎図書館だということになれば間違いなく受賞するんです。大変残念だと思っています。
 次に、国立民族博物館の大丸先生と高橋晴子さんのコンビで、衣装のドキュメンテーションの分野で、大変すばらしい仕事を長い間にわたってやってこられたということは皆さんよくご存じと思います。もしこれを毎年さらしものにして賞をあげないということになると、いったい図書館サポートフォーラムはどっちを見て何をやっているんだという警鐘となりかねない、大変な業績であろうと思います。これは推薦の仕方にちょっともう少し工夫があったら問題ないのになあと思うようなところがあります。推薦資料の作り方で、いつも大丸先生が前で、高橋さんが後に出てくることですよ。高橋さんを表彰してですね、それを強力にサポートしたということで大丸先生、というふうに並べれば、この2人のコンビは大丸ラケットコンビですからねぇ(一同笑)。これもまず受賞は間違いないと思います。本当にそういう意味では推薦のテクニックというものをもうひと工夫していただきたいと思います。
 もう一つ、一番下のミンダナオ図書館ですが、これは要するに知名度が低いんです。簡単なことです。これはインターネットで私も見たんですけれども、すばらしい仕事なんです。ホームページからの印刷物を持ってきました。これのどこがすばらしいかというと……、これは子どもの図書館なんですけれど、やっぱり本がないのです。だからこんな網みたいな、ザルみたいなものに毛布をひいて、その上にわずかな本が積んであるのがライブラリという、そういうものをたくさん作って、そして子どもたちに読ませようとしている。一方でその子どもたちは非常に健康を害しています。風土病とかそういうものです。だから図書館がメディカルケアを、メディカルセンターの役目も負ってるんです。こういう図書館というものが実際に存在してみんなが頑張っているんですが、これがもし非常によく知られた現象であるならば、その試みの献身ぶりではまず間違いなく皆さん評価してくださるだろうと思います。ただ残念ながら、審議の場に、そういうふうなイメージというものを与える資料が出て来なかった。国際化という話もございましたけれども、われわれの目から遠いところで、これだけ松井友さんががんばってくださっていることにもう少しなんとか評価の仕様がなかったかというふうに思っております。
 その他ここにいくつかの例がのぼっておりますけれど、やっぱり、今回入選された方々と、残念ながら今申上げたような選にもれてしまった方々との間には全く差はない、と評価していただきたいと思います。
 したがってこのへんがみんな落選しまして、次点ばかりが入ったという――身も蓋もない言い方ですけど。そこで菊地さんと京藤さんと小林さんなんですが、私、審査が済んだ後で、その場で委員の方々にうかがったんですけど、いったいこの御三方のどこを誉めたらいいか私はよくわからない。なんか教えてくださいと。たまたまその場にも推薦された方々がいらっしゃったんで、そう伺ったんですが、どうも私が納得いくふうには御返事いただけなかったんです。幸い今日は式次第にもありますように、ご推薦された方々自身のご挨拶もあるとのことですので、そこでたっぷり聞いていただきたいと思うし、それから受賞された方々からそれぞれのお言葉もあります。そこで正確・具体の方は聞いていただければと思います。では、講評というか、少し話をさせていただきます。
 菊池さんの受賞理由は、一言で言うとテーマの良さです。つまり、「医療図書館」。図書館というのはこれは私の偏見かもしれませんけど、だいたい3つの分野でのみ必要なんです。それは宗教と法律と、それから医療です。特に西欧的な伝統文化のもとでは、図書館が必要な分野っていうのはだいたい決まっており、宗教、法律、医療です。この3つのうちの一つの医療という分野で30年間、菊池さんは病院図書館というのを計画されておりました。お手元に配られている資料にそのわずかなところは載っています。IFLAの病院図書館プロジェクトに最近いろいろ尽力されたり、多くの書物を著したり、あるいは日本で国際級の病院図書館をお作りになられた。静岡県立がんセンターでしたか、「あすなろ図書館」というものをお作りになって、自らそこへ乗りこんでいって館長を務めて、日本の最初の国際レベルでの医療図書館というものを立ちあげて、その館長となって運営に当たる、もちろん大変です、もちろんたいへんなお仕事であることはお話をうかがえばすぐわかるんだけれども、これだけのことをなさった。そして経験された菊池さんの話によると、病院図書館というのは公共図書館である、そこには患者もいれば患者の家族もいれば、医者もいれば看護士もいれば業者もいて、とにかくいろんな人間がわんさわんさいる。われわれも病院に行けばすぐわかります。あれは一つのコミュニティーだ。そこで公共専門図書館的なサービスという新しいジャンルのサービスが必要なのだと言う。そしてわれわれ一億総病人――半病人ですか、こういう時代が来るからますますこういうことは必要になっていく、自分としてもこの分野で努力したい、こうおっしゃって、このあいだオフィスを日赤の真向かいに構えられたんですけど、そこで病院図書館というのを、新しい時代を踏まえて手がけていきたいということです。この気合いのかかりようというのは、菊池さんは岩手県出身の野田ベコですから。後で話を聞けばわかりますけどね、大変な人であります。
 それから2番目は京藤さんですが、京藤さんは私はどこを誉めたらいいかよくわかりません。誉めることが決まっちゃってから誰かに聞いたんですが誰も教えてくれないから(笑)、とうとうしょうがないから本人に電話したんですよ。あなた当たっちゃったけど誉めるとこないよって言ったら、そうなの、私もそう思ってるの(笑)、辞退しようと思ってるのよって言うから、しまった言いすぎたと思ってね、それ以来黙ってたんですけどね。お手元にあるでしょ、京藤松子さんの他の人よりも3行か4行多い推薦文(笑)。これはご自分でお書きになったんです(笑)。これは私は立派だと思いますね。遠慮ばかりしててもしょうがないんで。これは自分でお書きになったから私の書いた作文よりはるかにいい。京藤さんについて申上げたいのは、こういう人いませんね、確かに。なぜ京藤さんをどう誉めていいのかわからないか、とくと考えた。京藤さんの働いた環境っていうのは日本で他にあんまり例がない。アメリカンセンターの方もいらっしゃるんだけど、この人達の置かれている環境っていうのは変な言い方するとインターカルチュラルコミュニケーションっていうんですかね。前身はACCですか、われわれの大先輩の学術関係の人はみんなACCに世話になって勉強したという人が多いわけですけど、そのACCを継いでやらなければならないセンターですから、そういう伝統の上に図書館をおいて、そこに働く人達にややありがちなのは、アメリカの図書館はすすんでる、ところが日本の図書館は立ち後れている、こういう抜き難い価値観ですね。ここにいらっしゃる方はそういう考えはないと思うけど。そういう価値観なんですけど、京藤さんはそういうことないですよね。不思議なことだなと私は思っています。これは、京藤さんのもっている教養とかお育ちとかいうこともあるんですけど、インターカルチュラルコミュニケーションというものは、やはりこの人でなければわからない、できない種類の領域で仕事してきた、だからこういう存在なんだ、と。したがって、いままでアメリカンセンターでやられてきた事も非常に大事なことなんだけども、これからむしろ期して待つべきじゃないかと私は思っています。日本に何百と図書館関係の団体があるか知りませんけど、そこに国際活動を本当に真剣になって展開しているところなんてひとつもありませんよ。ひとつもない。だいたい国際部のある図書館関係団体なんて、私はないと思います。日本の図書館界はまだ鎖国の状態です。だからもし仮にこの図書館サポートフォーラムが本気になって国際的な部門を作ろうということになれば、日本で働いているイタリアの図書館人であれスペインの図書館人であれ、そういうふうな人々をあつめて、日本で働いているレファレンスライブラリアンというものを束ねる、ということになった場合、仮にそういうことを誰かが考えたら、京藤さんが会長として一番ふさわしい、そういうふうに私は思う。そういうスケールの大きい人間なのであって、これはちょっと投票なんかで評価できるような人ではないだろう。ということで、私は一生懸命、京藤さんについて、こじつけを考えた(笑)。以上でこじつけ終わりました(笑)。
 3番目は小林是綱さんなんですけど、この小林さん、図書館に対する認識というものが非常に鋭いし、すばらしいし、新しい。われわれだってみんな館界で長く働いてますから、図書館に対する認識ってのは持ってると思いますが、ところが小林さんの図書館の認識は、継続し発展しなければいけないのは図書館員ではなくて、むしろ図書館のほうではないかということで、図書館と図書館員とを切り離してとらえる――これは日本にあってもなくてもいいような(笑)、日本図書館協会とか文科省からは出てこない発想ですよね。これは本当にすばらしいと思います。それからデジタイズということですね。図書館はデジタリゼーションの波に洗われているんです。そのデジタリゼーションは、中央にある図書館は規模もあり、技術もあり、人材も多い、どんどん導入していくことが可能ですけど、例えば地方の公共図書館ということになると、これはあらゆる面で、予算面、人材面とか、資源面でも、いろんな面でなかなか難しい。だけれども、本当に日本のデジタリゼーションを普及させるんだったら地方にこそその本拠がありはしないか、拠り所があるんじゃないか、それをほっといていいのか、こういう判断です。つまりデジタリゼーションにしても、非常に物事を相対的に見て、例えば山梨県の山中湖と言うところでいろいろなことをやってみようじゃないかということは考え方として非常に現実的だし、しかもよく物事を見すえていると思います。しかもご存じのように、指定管理者制度ですか、そういうものに先駆けて山中湖にお作りになってたんですけども、これがだんだん日程にのぼってこようとしています。そういう場合にも、今申上げたとおり、単に制度的なものにおんぶするんじゃなく、その背景にあるデジタリゼーション、そういうものを踏まえて実現していこうという堅実さというのですか、これがやっぱり小林是綱さんならではという感じがいたします。そしてやっぱりお人柄が非常に発展的というのですかね、開発的というかディベロッパーというか、そういうお志が――この間山中湖でちょっとお目にかかったのですが――今の図書館法をおきかえるのに、地域情報発展館法、これからはそういう世の中にならなきゃいけない、と。すばらしい発想ですよね、われわれが戦後50年間しばられてきたものを全部置き換えちゃおうっていうんですから、すばらしいでしょう。それから私が学術分野の人間だってこと知ってるもんですからね、名誉教授図書館を作ろうって言うんです。これは私ひとこと言いましたけど、あとで当然おっしゃって下さいますから。
 こういう次から次へとすばらしいアイディアが出てくるっていうのはやっぱり民間に自分の体を置いたからです。国とか、地方自治体とかに置いたままにしていたら、頭が眠っちゃいますから。出てくるようなすばらしい頭でも出てこなくなっちゃう。やっぱり自分の身をどういう場に置くかという、これが小林さんの決断である。だいたいこの甲斐の人というのはそうですね。お坊さんなんですよ、この小林さんって人は、こともあろうに(笑)。甲斐の国っていうのはね、お坊さんがいい仕事するというか大変なことをやりますよ。武田信玄もそうじゃないですか。昔、武田信玄、今、小林是綱(一同笑)。本当にこういう気概をお持ちなんですよ、後でお話ししてご覧なさい、気押されてちょっと30センチぐらい後退りしちゃいますよ(笑)。すばらしい方です。
そんなことがあって、この御三方、私は今回は、大変すばらしい方を、しかもバランス良く、それぞれみんな持ち味が違うし――似てるところもあるんですけどね――それぞれユニークなところをお持ちで、私としては今回の賞にふさわしい3点を委員の方々が選んでくださったと思います。ぜひ皆さんにお願いしますが、来年も、冒頭、代表幹事末吉さんの話にありましたように、ユニークで、自分だったら本当はこういうことがやりたかったんだけどもやれなかった、それを実現してくれた、そういう事例を見つけてきてご推薦いただきたい。
 私個人は今回ミンダナオ図書館というものについて解説時間が足りなかったことを後悔しております。ぜひみなさんインターネットでご覧になって下さい。すばらしいです。インターネットで見ますとね、子どもたちが本を読んでいるんですけど、その顔が壊れて無茶苦茶なんです。口や顔に団子ができていたり、まともな子どもいませんよ。それでもなんとか本を読んで勉強しようとしている、そういうリアリティーが胸に迫ってくるホームページです。これはぜひおすすめします。
 余計なこともだいぶ申し上げましたけどお後がよろしいようで……(笑)。

【受賞者/菊池佑氏】
 正直言いまして、受賞というようなものには全く無縁と思っておりまして、驚いております。私がなぜこの患者図書館というものに関わったかと申しますと、変わり者、ということだと思います(一同笑)。70年代といいますと、高度成長期、つまり日の当たらないところに目を向けることがあまりなかったようで、仕事にせっせといそしんで、当時は病人・患者というのは「穀潰し」という、非常に古い嫌な言葉ですけど、ああいう時代だったのです。まず、その時代になぜこのテーマに向き合って取り上げたかというと、中学の教員をやっていまして、私の立場から言うと”教員に失望した”、学校のほうからいうと”おちこぼれ”ということですよね。図書館の方に身を置くようになり、卒業論文にとりあげたのが患者図書館ということです。当時は、日本ではそういうシステムが――まあ今も確立されていませんが――実態はわかりませんので、英米の文献を読みました。それで結論に達したのが、医療には文化が必要だということです。やがて日本の医療界、病院も、患者中心の医療に目を向けるようになり、患者のための教育文化の必要性を感じる人たちが増えてくる、と確信しました。欧米では図書館司書が患者図書館でサービスをやっている、日本も必ず、まず”もの”を満たして後、”こころ”を満たそうとする時代が必ずやってくると確信しておりました。
 それで大学図書館で勤労しながら研究を、それから1974年には日本病院患者研究会を立ちあげまして、研究の場合は――ここにいらっしゃいますが、京藤さんのおられたアメリカンセンターを利用させていただきました。そういうわけで74年に市民団体、今でいうNPOを立ちあげて、今年で31年になりました。当時は図書館にいる人たちも患者図書館というものをおわかりになる方は少なかったので、まず啓発ということで、日本の国内で、日本で誰が、どの団体がやっているということを調査しまして、『図書館界』に発表しました。そのあと、日本の実態を把握した後、アメリカ、イギリス、スウェーデン、西ドイツ、フランス、ポーランド、一年一国の見学をし、その報告を『図書館界』の方に載せていただきました。ですから『図書館界』の人にお世話になりましたね。たまには『図書館雑誌』にも載せていただきました。
1986年にIFLAの東京大会、あのときに病院患者図書館セッション――日本の医師とポーランドの図書館司書との――実現に力を貸したという……。前後しますが、1983年に日本で最初の患者図書館の本『患者と図書館』を出版しました。1987年からIFLA常任委員をやっておりまして、90年代にもう一度、それから2000年にもう一度常任委員、というふうに。それで来年は韓国のソウルでの開会が成功するように微力ながらがんばりたいと思っております。
 患者図書館は非常に複雑になっておりまして、教育・文化、いわゆる公共図書館的なものだけではなくて、専門図書館的なサービスも加わっております。つまり、患者、家族、一般市民の方に医療文献を提供することは当たり前になっております。そうなると、今までと違って今度は、患者図書館司書は医療についての基本的知識を学ぶと同時に、医学と医療の動きを常にキャッチし、最新の情報を入手し、更新し、提供するという、非常に目まぐるしい仕事に変わってきております。私も毎日、新聞や雑誌で勉強しております。さて、気が付いたことは、世界の名医がいくらがんばっても絶対治せない病気があることがわかりました。それは、金欠病ですね(一同笑)。それに私もかかっておりまして、私も患者です。私の場合は慢性で、かつ末期的な患者になっております(笑)。これはまあ医学関係の勉強をしている中でわかりましたね(笑)。これだけは治せないのでどうしようもないです。
 ところで、司書専任の患者図書館は未だ全国に3箇所しかありません。一つは静岡県立がんセンター、それから東京女子医科大学病院、それからもう一つは今年の2月にオープンしました島根大学病院、この3つしかないんですよ。それで研修会を開くといっても、3箇所と少なく、しかもお互い遠隔地にある立地条件がありますので……。それからもうひとつ最近は公共図書館から健康とか病気についての質問が増えているそうです。公共図書館の人も、どういうふうに研修を受けたらよいかということで、困っている人が多いということです。去年から図書館員のための医学講座、生理学、解剖学の勉強を始めまして、今年度も実施する予定であります。
このように時代が1970年代と大きく変わりまして、患者図書館もダイナミックになってまいりました。私が静岡がんセンターに患者さんのための図書館を立ちあげるのもお手伝いしましたけれど、その際、図書館の3条件、まず図書館司書、それから図書館資料、まあ予算ですよね、それから図書館施設です。この3つを確保しました。それから図書館の位置、患者さんにとって一番便利な場所、まあ銀座でいうと4丁目交差点あのあたり――玄関入ってすぐの、目にとまるところ、これも要望したんです。そしたら、静岡がんセンターは、ハイいいですよ、って設計図に取りかかりました。新しい時代になったなあと思いました。今までの病院ですと、患者図書館といっても奥の方にあり、職員の方でも知らない。というのも図書館司書が担当しないでボランティアの方ですから、病院の方でも知らない、ということに……。これでは利用者にとっては不都合です。そこで患者にとって便利な場所も重要な条件だと私は痛感していたのです。
 単なる箱ものではなくて、図書館サービス、つまり図書館の機能、これが大事です。なぜこんな図書館の機能とかサービスとか場所とか言ってるんだ、当たり前のことじゃないかなとお思いになる方もいらっしゃると思うんですけど、患者図書館というのはまだ制度化されていませんので、ほとんどの病院では、その時の都合でやってます。だから箱だけあるんです。要は箱ものですね。本棚ならべて無人化というのもあります。これは図書館とは言えません。そういうのを今まで全国の病院で作ってきたんです。そういうのじゃなくて、図書館としての機能を持つ患者図書館というものを作ってくれと要望しまして、静岡がんセンターが受け入れてくれた、やらせてくれたということです。それに刺激されて東京女子医科大学、それから島根大学というふうに続きまして、これが4つ5つ、6つ7つ8つとだんだん増えていくことを願って、活動を続けております。そういうことで、みなさんが考えていらっしゃる図書館とだいぶ違いまして、その初歩的な段階で非常に苦労しております。患者図書館に司書を雇うということを70年代、80年代、90年代、どこもやっておりません。2000年になってはじめて日本に専任司書が登場したのです。私は幸いにも最初の専任図書館司書として仕事をする機会を与えられたのですが、問題点もあります。患者図書館司書というのは医学的知識がないと、十分なサービスができません。それからもう一つは、医師・看護師・薬剤師等の医療者からの信頼の問題があります。どうして医学の素人が……ということもあるのです。ですから患者図書館の担当者は医学の基礎教育を受けて、それから日々勉強していくという繰り返しが必要と痛感しまして、2004年度から「図書館員のための医学講座」を始めました。
 また、「Web患者図書館」というのを2004年1月に立ちあげました。これはどういうものかといいますと、公共図書館とか大学図書館とか患者図書館とかにあります一般向けの資料――一般向けの医学書、医学雑誌、新聞記事切抜きというもののについての書誌的情報、所在情報を載せて、この本はこの雑誌はこれこれの図書館にあるという情報を利用者の方に提供する、というものです。
 そういうことで、今後――すみませんもう一つ、実はもう一つ、80年代から90年代かな、患者図書館の司書になりたいということで司書の講習を受けている方から、よく私のところに問い合わせが来るようになりました。そのときはっと気が付いたんです。患者図書館が増設されていけば、司書の就職口が増える、ということです。これからも患者図書館の活動の際には、図書館の就職口が増えるんだ、という確信のもとやっていきますので、みなさんのご支援をお願い致します。

【受賞者/京藤松子氏】
 先ほど表彰委員長からお話がありましたように、私もすばらしいものを頂戴してここに立ちながら、いまだになぜ表彰されるのかわからなく、今年1月31日付けでアメリカンセンターを33年近く働いて定年になった、ただそれだけじゃないかと思っているわけです。したがってお話しすることは何もないのですが……。
 アメリカンセンターといいますのは、アメリカの連邦政府がマッカーサーの頃から日本に開設してきた図書館の延長でして、もう60年近くもやっているのですが、その後半の33年間――1972年から私が勤めさせていただいたわけです。マッカーサーの頃は日本の戦後で、その援助と処理の一環としてアメリカ政府が図書館を開いたのですが――プロパギャンダ的なニュアンスがないこともなかったのですけれども、立派なのはきちんと本国の図書館員を雇って、学者もアドバイザーに起用して、日本の事情も勉強し、私のような(その当時はまだ居ませんでしたが)現地雇いの職員をきちんとトレーニングして情報の提供をしたことです。私も72年以降この図書館で一生懸命働いたのですが、何と言っても留学時代にいろいろとアメリカにお世話になったものですから、その恩返しのつもりもあったのです。
 80年代半ば頃までは、アメリカンセンターの使命の一つにアメリカの最新の情報サービスのあり方や方法をデモンストレーションするということがありました。資料を購入したら保管するだけではなく必ず提供・活用しなければならない、そういう図書館を実践するという使命が私どもに課せられていました。もう一つの使命は、この方が重要なのですけれども、アメリカが日本だけではなく世界の百数十カ国に同じような情報サービスをしている目的は、それぞれの国と相互理解を深めて平和維持を保ち戦争にならないようにするということです。
 これらの使命は私がアメリカンセンターで図書館員として働いている間中いつも糧にしておりました。予算が縮小されたり、京都や札幌のアメリカンセンターがクローズされたり、東京のアメリカンセンターでも図書館員が7人から4人に減らされたりした時、あるいはコンピュータ化や新しいウェブサービスを立ち上げたりする時は常に闘う必要があったのですが、そんな時はいつもこの図書館の使命は何なのか、いかに与えられた使命が重要であるかを考えました。スタッフとも何度も使命を考えそれを基に予算の問題などで上部と掛け合ってきたのです。相互理解を深め平和維持をするためにコミュニケーションが大事であり、そのためにきちんとした専門図書館員による情報サービスがいかに必用であるかが強い糧でありました。
 いま私は退職しましたが、図書館を運営している時にいつも戻り強い糧となった自分の図書館の使命、それをこれからもう一度勉強してみたいなと思っております。アメリカンセンターの使命は”パブリックディプロマシー”といわれるものですが、現在起こっている中国の半日感情(アメリカに対してはイラクでの反米感情もあります)に対して、情報をいかにフェアーにきちんと提供していくかが非常に大事なことだと思います。で、たまたま昨年設立された東京大学公共政策大学院でのゼミを受ける機会を与えられましたので、これから私がアメリカンセンター図書館の運営の糧とした米国の情報政策すなわち”パブリックディプロマシー”を勉強しなおして、ゆくゆくはきちんとした形でまとめられればと思っております。
 本日は大変ありがとうございました。

【受賞者/小林是綱氏】
 花開きて蝶来たる、蝶来たりて花開く、橦木がなるのか鐘が鳴るのか、鐘が鳴るのか橦木がなるのか、我あれば彼あり、彼あれば我あり、受賞者あれば表彰者ありということで(笑)、いろんな方がノミネートされている中で、その一人に選ばれたこと、光栄であります。実はこの表彰についてのお話を頂いたときに、石井先生から電話が入ったときに、それを聞いていた福島に嫁いでいた娘がですね、「なにお父さん表彰されるの?」「そうらしい、NHKの地域放送文化賞以来だ」と話をしたら、私の娘が、「たしか文化勲章以外はもらわないって話していなかった?」と言いまして(笑)、「たしかそうだったなあ、でもこればっかりはいただかなきゃいけない賞なんだよ」ということでいただきました。どうもありがとうございました。
 花開けば蝶来たる、蝶来たりて花開く、つまり一者と二者がいて春という三者がいて、表彰というのはそういう評価の中にあるのかなあと思いますと、私だけではなくて、私と一緒に地域資料デジタル化研究会を立ちあげたメンバーや、今、山中湖情報創造館で働いているメンバーが ともにいただいたものかなあと思って非常に嬉しく思っております。ありがとうございました。
ちょっと時間が押し迫っているので、5分くらいで、紹介したいと思うんですが、実は私、表彰される理由の中に、一番大きなものは、指定管理者でもない、それから山中湖で情報創造館という名前で図書館活動したんでもない……言うならば、日本の文化あるいは歴史を、地方がどうとらえていくかということを、もう一度地方の人たちに訴えたい、というのが対象だろうと。公共図書館は東京から発展しました。三多摩地区を中心にして70年代の公共図書館はスタートした、そしてそれに追いつけということで日本のそこいら中の公共図書館――あるいは自治体がといったほうがいいかもしれません――それが真似をしながら日本の公共図書館は作られてきたような気がします。さきほどY図書館はもういらないというおっしゃり方をなされた方がおられますけれども、ある意味、いえば金太郎飴みたいな形でつくられてきた、70年代、80年代、90年代前半、こんなことでいいのかなあと憂いておった一人でございます。その中で幸い、石和町立図書館をつくらせていただくきっかけができまして、この折、実は今年お亡くなりになりました天野建という知事がおりまして、この知事から「石和の町に図書館作ってよ」という話をいただいて、私は当時、県立図書館の郷土資料室の職員だったんですが、「いいですよ」ということで、県職員をやめて、町役場職員として石和町立図書館を作らさせていただきました。その折、なんでビデオだとか映像だとかそういうふうなものを図書館にとりこんでいけないんだろう、ということを感じました。当時、著作権法の改正がありましたんで、著作権の映像情報も図書館も貸して良いよということを法律で決められたとき、すぐ実践させていただきました。ですから日本で初めてビデオテープの貸出しをした図書館が石和町立図書館でした。47歳のときに町長が変わりまして、「小林さん、今度は役場の課長になってくれ」という話を持ってきたんですね。「それはなぜですか」と聞いたら、「図書館長というのは一番若い管理職の登竜門だ」と、こういう話だった。というのは、私が県から石和町の役場に行ったとき、まだ40歳、それで図書館長ということでしたから、役場としては異例な若い人事での管理職、ということだったんでしょう。そこで図書館長が一番若手の課長ポストだということが石和町役場職員の中にずっと広まったようでございまして、それで町長が小林さんそろそろ47歳になったんだから、ぼつぼつ館長職を譲ってほしい、というこんな話になりました。当然私は、「冗談じゃない、私は図書館のためにこの石和町に来たのであって、課長になるために来たんじゃない、町長さん申し訳ないけどこれは受けられない、かといって、今ここで即、私が辞めることは、せっかく立ちあげてきた石和町立図書館の後をつなげていくことができないから、一年間、館長職を養成させるという意味で置いといてください、そして翌年の3月にはいさぎよく退職をいたしますから」ということで、ちょうど小椋佳が銀行を退職すると同じ年に、退職を致しました。石和の図書館は準備室からかれこれ7年務めさせていただいたんですが、その後浪人を致しまして、好きだった知事さんのもとに山梨県の図書館計画作りませんかということで周辺の図書館と県立図書館が――ネットワークを当時まだ電話回線でつないでいた時代ですが――オンラインで蔵書を交換するという仕事のお手伝いをさせていただきました。当時、その中で図書館界の雄に非常に叱られた覚えがございます。自分の公共図書館の蔵書がしっかりしてないうちに隣の図書館に手を出すとは危険だ、ということなんでしょうけれど。
 次に私の一番うれしいことは、八ケ岳の大泉村という人口わずか4800人の村でしたが、そこで『金田一春彦ことばの資料館』を作らさせていただいたことでございます。これは山田村長さんが「小林さん、浪人してるんだったら、大泉村に図書館作ってよ」ってことで、「いいですよ」って二つ返事っていうのはよくあることですが、一つ返事でございまして、もうそれで引き受けてしまいました。さっそく、その次の日に金田一先生に手紙を書かせていただきました。金田一先生、大泉村に別荘をお持ちでございます。先生は杉並の松庵にたくさんの本を蔵書されていると思いますが、大泉村で図書館を作るという話が出ておりますので、どうぞもしよろしかったら、先生のお書きになった書物だけでもご寄贈いただければ幸いでございます。行間には、先生、全部でもいいですよ、という意味合いにとれるように書かせて頂きました(笑)。当時、井上ひさしさんが山形県に遅筆堂文庫を作ったばっかりのころでございましたので、金田一先生も大喜びでございまして、「いいよいいよ、小林さん、全部持ってって」と言うことで2万冊の蔵書をいただいて、金田一先生記念図書館を作らさせていただきました。私は図書館は人づくりだ、とよく図書館界で言う言葉を、このとき初めて実感いたしました。金田一先生は資料館の書斎風のところに、夏の間、研究のためにいろんなものを広げて勉強なさってるんですね。そこへ小学生や中学生や大学生が、どんどんやってこれるような施設づくりをしたわけです。そうすると、金田一先生の隣で大学生が卒業論文を書く、その隣では小学生が夏休みの宿題を仕上げる、こんな雰囲気を作ったんです。そうしましたらその翌年の3月、泉小学校の卒業論集の中に、僕は国語学者になりたい、というのが2名現われました。泉小学校はまだ本当に40数名のクラスしかない単級の学校でありますけども、2名。これこそまさに人づくりですね。というのは、先生が気さくに、「何勉強してるの?」とかそんなふうに声をかけられて、そして話題が広がりながら、「僕はね、日本語の勉強をしてるんだよ」なんて小学生に話をしている。そんなことがきっかけだったでしょう。卒業論集に書いた2人は今、高校3年生でございます。来年の大学進学が楽しみです(笑)。どこを選ぶのかね。
 そんなことで図書館づくりは人づくりだということを自分の手で、目で確認したというふうな思いがございます。そして大泉の図書館では3年間と言う約束で退きまして、新しい人に館長をゆずって、今度は山中湖情報創造館――私、何かやるときに日本一でないと気が済まないタイプでございまして、石和の時にもビデオテープを最初に、大泉の図書館では自動貸出しシステム、ブックディレクションシステム――BDSですね、この2つを公共図書館で本格的に取り入れた。これも図書館界から批判を受けました、とくに日本図書館協会からご批判を受けました(笑)。そういうなかで、いやこれこそまさに図書館サービスの神髄であろう、というふうなことで『図書館雑誌』には数本論文書かせていただいております。またお読み頂ければと思いますが、そこで今度、山中湖では、平成15年9月2日、指定管理者制度が施行されて、単に国や市町村の団体でなくても、民間会社でも、あるいはNPOでも図書館運営が出来るという法律改正がなされたときに、すぐに準備をさせていただいています。正直申上げてその改正以前にもう準備していました。そのことはみなさんのお手元の資料に、この図書館雑誌の4月号に書かせていただきましたが、仮に法律が施行されなくても、実刑覚悟でやっちゃえということで決断をして、自治体の職員と話を進めておりましたら、進行中に、地方自治法が改正になり、文部科学省も非常に弾力的な発想になりました。
 先に井上表彰委員長がおっしゃられましたが、名誉教授図書館を作りたいと思っております。第一号になると思うんですけど、先生、50万ご出資いたしませんかと。出資頂けましたら、先生の蔵書、奥さんから嫌われている蔵書をひきとりまして(笑)、そしてそれをその図書館の一画に置きまして、利用者が来られたら、入館者ひとりいくら、もっというなら一点利用料いくらということでいただいて、先生からお預かりした金額よりオーバーしたら差し上げますというかたちで、簡単に申し上げますとそんなようなシステムで作れるだろうと。国立国会図書館を上回る利用率になると思いますよ。これは今大学図書館がどこの名誉教授の寄贈ももう欲しくないと言っているわけですから、したがって安い土地の中に、半永久的な施設を作りたいんですが、その建物をつくって、それを増設していくことによって一大プランが仕上がっていくんじゃないかな。サポートフォーラムというくらいですから、みなさんサポートしていただきたいというふうに思うんですね。利用しやすい、しかも原所蔵者の魂が残る図書館となりますよ。
 最後になりました。受賞してしまったらもうそれで小林是綱さん図書館活動やめろっていう意味でくださったのか、あるいはこれからもっとがんばれ、という意味でなのか、そのことについてはまた末吉会長の方から懇親会の折にでも言ってくださればさらにまた元気になるんです。そんなところで、夢は、日本中の公共図書館の館長を司書有資格者で一色に染めたい、これがひとつ。それからもうひとつは名誉教授の図書館をつくりたい。私自身は今早稲田大学の非常勤講師をしていますが、名誉教授にはとてもなれません。なれませんので、そのお手伝いをさせていただこう、というようなことで、微力ながらがんばりたいと思います。もう一度この表彰についてお礼を申上げて、末吉会長様にも深くお礼申上げながら挨拶と代えさせてください。ありがとうございました。
⇒目次へ

俳句五句

山内 明子

いざ鎌倉花見弁当たづさえて

とりあへずビールと云ひてとめどなく

穂高秋空気の肌理の細かくて

一夜置きし鰤大根や仕上げの火

眦に恋の札をく歌留多かな
⇒目次へ

けやき文庫(その二)

岡田 恵子

 先号に欅文庫のことを載せていただいた。実は、あれは二〇〇三年の秋に書いたもので、載せていただいたときにはすでに一年が経っていた。この文集が原文までホームページで公開されていることを知り、その後の変化もあったので(その二)を書くことにした。
 今年、図書館サポートフォーラム賞受賞者三氏の中に、日本病院患者図書館協会会長の菊池佑氏が選ばれた。彼の努力を審査委員会が認めてくださったことはとても嬉しい。なにしろ約三〇年間、余暇の大部分を、それこそ命をかけて患者のための図書館活動に携わり、この欅文庫も二五年近く前に、彼が立ち上げに全面的に協力したとのことである。菊池氏は今、「いのちの図書館」と称する文献センターを運営している。インターネット上に患者図書館(Web患者図書館)も開設されている。
 さて、私は今年体調をくずして、ボランティアに行けなくなってしまった。そこで病院側の窓口となっている、地域情報室の小泉係長に問い合わせ、最新の情報を寄せていただいた。
上用賀にある関東中央病院では、昨年中頃、ボランティア・コーディネーターと称する役職を置き、前副看護部長が週3回で働くことになった。図書サービスだけでなく、外来患者案内のボランティアの補佐もしている。一方、昨年七月、入院患者のベッド脇にあるテレビ全部を新しい装置に置き換え、チャンネルのひとつがインターネットと繋がるようになった。小泉さんはこれを患者へのサービスに応用できないかと考え、まず病院内の敷地にあるコンビニエンスストアー、ローソンの商品を検索注文できるようにした。売店からは注文に応じて、一日一回病室への配達が行われる。彼はこのシステムを図書貸出サービスにも広げられないかと考え、実行に移した。
 まず、インターネットからダウンロードした「お気軽図書館システム」(無料とのこと)というソフトに、コーディネーターが、著者、書名、出版社を入力、彼女の努力によってすでに二千冊位が入った。先号で書いたように、ここはカード目録がない。したがってこれは、登録簿に記載されていることを単純に入力し、現物との確認作業はなされていない。NIIの目録などとは違い、まことにおおざっぱな目録ではあるが、ひとまずはこれで役に立つ。
 欅文庫に病院側からの予算はまだつかない。したがってこの目録をどうやって先に述べたインターネット上に載せているかというと、まだ実験段階である。”厳選された”五十冊のみがローソンの販売システムを利用してベットサイドから検索できるようになっている。貸し出しの予約はローソンが受け取る。ローソンはそれをコピー(あるいはファックス?)で地域医療室に届け、小泉さんやコーディネーターが、注文があり次第文庫に取りに行って病室まで届けるという具合。文庫のボランティアは月曜と金曜の午後数時間しか来ない。今のところは貸し出し数もちらほらなので、なんとかなっているとのこと。ちなみに、この五十冊はローソンを通じて購入することもできるそうだ。
 私は、先に述べた菊池氏が図書館雑誌に書かれた記事のコピーを二年近く前に小泉さんに渡した。その後、彼は、先進の患者向け医療情報サービスを行っている病院に見学に行ったとのこと。
 昨年、ボランティアと病院側スタッフとの間で、これからのサービスについて話し合う会が開かれた。そして、病院側も少しは図書購入予算を補助して、患者向けの医学書も購入することができるのではないかとの提案もなされた。これはまだ実現していないとのこと。
スペースの問題ほかいろいろ課題はあるが、これだけ病院側の担当者が積極的に動いてくださったことに、私は敬意を表している。
 ボランティア側も作家のアカサタナ順に本を並べ替えたり(たとえば、ア行の中はごちゃまぜになっているが、以前よりは探し易い)、寄贈などで増え続ける本のために、貸し出しの少ない古い本の除籍作業を行ったりした。
近々、菊池氏の作成する「いのちの文献目録データベース」に簡単にアクセスできるよう提案してみようと思う。
⇒目次へ

図書館列車、出発進行!

近江 哲史

 さあ、待ちに待った図書館列車による二週間の楽しい読書旅行である。私はうきうきした気分で列車に乗り込んだ。あの豪華寝台特急「カシオペア」号に似たつくり、全車二階建ての超デラックスなものだ。図書館列車同好会の面々数人がいっしょだ。(LSFの人たちと何か似た人ばかりのような気がした。)まずAさんが早速、「♪ 汽イ笛一声新橋をオウ〜」と低い声で歌い始めている。のってる証拠だ。「……はや我汽車は離れたり。愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として。(鉄道唱歌 東海道編 作詞 大和田建樹、作曲 多梅稚(おおのうめわか)、明治33年)」(この時、この列車がホントに発車した。)
 それを聞いていたBさんは即興で歌い出した。「♪ プファーと一声東京を、 図書館列車は発ちました。 これから先の二週間、 寝ても醒めても本ばかり。」なるほどね、と誰かが言った。Cさんはじゃあ、二番いくぞ、と「♪ それというのもこの列車、一階全部図書館さ。二階部分は寝台車、起きればたちまち書斎なり。」うん、では続けるゾとDさん。「♪ 洋の東西問わずとも、古今の時も問わずとも、いかなる書物も備えあり、わが図書館は完璧さ。」なんだか、へたくそだなあ、と声があがり、その後はもう続かなかった。でもしばしの間の後、絶世の美人と言ってよかろうEさんが、最後のところはできたわ、とおっしゃった。「♪ 図書館列車はゴールイン、ああ楽しかり二週間。本はたっぷり読みました。また来年も行きましょう。」なんだ、もう着いちゃったの? とビックリした声。
 それはともかく、この列車は東京発、北上して一週間で札幌まで行って帰ってくる。そのまま南下し続けて次の一週間で鹿児島まで行って再度、東京に帰るのである。趣旨は、ともかくここ二週間は車内でひたすら本を読んだり駄弁ったりすることが目的なのだから、列車の速度は超のろい。本を読むには手がぶれない方がいいし、特急と言って急いで行ってしまっては札幌だって一晩で着いてしまうじゃないか。
 さてこの列車の一階は全部図書館になっている。全車で十六両、東海道新幹線と同じだ。まず一号車は新聞・雑誌がある。二号車は図書分類0(総記)の部屋になっている。三号車は1(哲学)、四号車は2(歴史)、五号車は3(社会科学)、六号車は4(自然科学)、七号車5(技術・工学・工業)、八号車6(産業)、九号車7(芸術)、十号車8(言語)、十一号車〜十三号車は9(文学)、十四号車は列車図書館長室や小会議室、レファレンス室がある。十五・十六号車は閲覧室だ。本は自分の席に持ち帰っていいのだが、パソコン端末などをも擁している部屋なのである。参考室も兼ねる。
 私は新橋、品川あたりの間、のんびりと外を眺めていた。列車の二階から外を眺めるのは実に気分がいい。ビジネス街が見える。通勤時間か。仕事の世界が動き出しているのだろう。背広姿がウジャウジャしているのが見える。昔は私も会社に通っていて、実にシンドかったなあ、それがどうだ、今は。通勤の面倒もない。好きな時に好きなことのできる「定年後人間」になったのだ。だからこうしてノンビラコと列車に乗って出かけ、二週間も読書し続けるというヘンな旅にも出られるのだ。さて、と私はやおら一号車に出かけ、新聞を読みはじめた。アッ、そうだ。喫茶室は、もう営業しているかな、あそこへ行ってのんびりしよう。三号車が喫茶室(二階)だ。新聞を持って出かけた。コーヒーを飲み、そのうち、朝なのにうつらうつらしてきた。「世の中に寝るほど楽はなかりけり、浮世の馬鹿は起きて働く」なんて言っている夢を見て、やがて眼が醒めた。
もう列車は東北本線を走っているようだ。私はどこを走っているかには構わず、四号車へ急いで行って歴史書を探す。今問題になっているR・ジョンソンの『紫禁城の黄昏』(上)を見つけた。シメシメ、まだ人に借りられていなかった。これはすごい本だ。貸し出しを受けて自分の席に戻る。この本は原典が出て、実は東京裁判の時、資料として提出されたのに却下されてしまった。それで(と言って言い過ぎでないかもしれない)東京裁判は成り立ったのだ。あんな勝利者が敗者を裁くという裁判なんかとんでもない、結局、日本は東京裁判を肯定してしまったような状態のままに、今日来てしまったから、続いて靖国神社のA級戦犯がどうの、という問題になってしまった。これは、そういう日本の不幸の始まりを阻止できる可能性のあった本である。『諸君!』の二〇〇五年六月号に井沢元彦・小堀桂一郎・渡部昇一の三氏が鼎談会で話している。――「『紫禁城の黄昏』が証かす歴史の鑑」などと。この本は前に岩波文庫でも訳が出ていたのだが、今度は完訳であり、そこにたいへんな意味があるのだ。前のものは肝心なところが削除され、それでは塀のツッパリにもならない。その期待の本をやっと読むことができる。
 昼になったので、今度は食堂車に出かけた。やあ、と出会ったAさん・Bさんと歓談しながらの昼食である。「何にしますか」「このメニューにライブラリー・ランチというのがありますが、これにしてみようじゃないですか」何かよく判らなかったが、これを皆で注文した。出てきたのを見ると、おにぎりセットというべき軽食であった。「なーるほど判った」とAさんが声を挙げた。「ほら、かのサンドウイッチという食べ物は、賭け事の大好きなサンドウイッチ侯爵という人が、手も離す時間も惜しいということで片手で食べられるあれが発明されたじゃないですか。このランチは、本を読みながらでも食事ができるということですよ」「なるほど、そんなわけですな」「夕方は本格的なディナーをやりましょうや」なるほど、皆、文庫本その他軽めの本持参で食堂車にやって来ていたのだ。
 こうして皆は飲んだり食べたり、ボンヤリしたり、居眠りしたりというのを含めて読書三昧を続けるのであった。列車は北上し、北海道に入り、札幌に着いた。でもここで下車するのは僅かの時間だけ。すすきのに行ってラーメンを食べたのがせいぜいの「上陸」であった。そしてとんぼ返り、また札幌を後にして、本州に入って行く。
 列車図書館はイベントもしばしば催してくれる。講演会・講習会もあった。「世界の図書館」というのや「図書館の歴史」といったまともな教養風の講演もあったし、「笑う図書館」とか「情にもろい図書館人」といった講演は、私は聞かなかったのであるが、どんな話だったのだろう。東京に戻った時は皆半日以上の下車となって、国立国会図書館見学が行なわれた。京都に着いた時も、その関西館を見学する機会となった。新しい、なかなか立派な図書館であった。
 鹿児島に近くなった。もう乗車十日にもなる。皆、図書館にも読書にもさすがに飽きが来ている。「Bさんはどんなものを読んでいるの」と聞いてみた。「私はね、」とこの几帳面なお人は言った。「めったにないチャンスですから、新刊書に限る、読んだことのない著者にかぎる、と手あたりばったりで、全分類記号に挑んでいるんです」と言う。第一日目は二号車、翌日は三号車と、毎日号車を進む。0(総記)で『「話の特集」と仲間たち』、二日目、1(哲学)で『おろかものの正義論』三日目は2(歴史)は『信長軍の司令官』、四日目3(社会科学)『世界がもし一〇〇人の村だったら』、という具合に日々号車を変え、いろいろな分野の未知の本に挑戦して行っている、というのだった。
 Cさんに出会ったので、「Cさんはどんなもの読んでいるんですか」と声を掛けてみた。「私は書物ものに徹していますよ」と言う。「例えば?」と問うてみると、「まあ、こんな人のものですね。小野二郎『書物の宇宙』、反町茂雄『一古書肆の思い出』、横田順弥『古書狩り』、紀田順一郎『古本屋探偵の事件簿』、それに昔からなじんでいた庄司浅水さんの著作集などです」「なるほど、さすがに読書人として冴えていますね」という具合だった。さて、他人の読書調査をしてばかりいても始まらない。私はこれまでの経過を原稿に書いておこうと、ノートパソコンに向かった。二週間を使った読書生活、それで人それぞれ様々な状況になるものだ。それがこれである。
 そこに美人のEさんがやって来て画面を覗き込んだ。「何してるの? あ、この図書館列車の紀行文みたいじゃないの」「そうなんです。×××××という雑誌から原稿を頼まれているもので」「だって、こんな図書館列車なんて大ホラ話じゃないの」「そう。そうなんですよ。この図書館列車というでたらめな話、で、私がここで何が言いたいかというと、それは図書館というものは、いつでもどこでも必要なのだ、そして図書館は楽しいものでなくちゃならない、っていうことなのですがね」「ホホホ……。それならこれでいいじゃないの。よく書けているわ」「自信がないけれど、じゃ、これで出してみますか」
 かくてこういう原稿にし上げた時、この図書館列車は東京駅にすべりこんだのである。
⇒目次へ

図書館協議会委員をやって良かった

関野 陽一

 6年間務めた地元の図書館協議会(埼玉県富士見市)の委員の任期が最近満了になった。最初の2年間は副委員長を、残りの4年は委員長を仰せつかった。ほぼ毎月、年10回開催され、委員長はめったなことでは休めないので、委員長時代の40回の会議のうち欠席は1回だけだった。
 この間、日常的な図書館運営について報告を受け、それに対して意見を述べるとともに、「情報技術を活用した図書館のサービスのあり方」、移動図書館車廃止に伴う「サービスポイントの設定について」、あるいは「市民と職員との協働による図書館運営のあり方」といった、図書館にとって重要な問題についての報告書をまとめる機会があった。
 全員で10名の委員の皆さんも熱心に取り組んだが、図書館側も図書館協議会を重視していたようだ。図書館長が、図書館協議会から元気をもらったと、言ってくれたことがあったが、これを聞いたときはうれしかった。すべてがうまくいったわけではないが、委員と図書館側が相互に協力することで、そこそこの成果を上げたのではないかと思う。図書館運営の一部分ではあるが、図書館協議会に関わることで、今まであまり知らなかった公共図書館のことについても色々勉強になった。
 まず、図書館を利用していないと何も意見を言えないので、委員を引き受ける前に比べると、頻繁に図書館を利用するようになった。使ってみると、図書館の良い点、物足りない点が見えてくる。一般的な参考図書は職場の図書館より充実しているし、図書館関係の図書も、近年刊行のものは結構揃っているので、大学の非常勤講師をやるようになってから大変助かっている。もちろん、参考図書も図書館関係の本も、購入して欲しいものはたくさんある。しかし、あそこの図書館に行けば、この範囲までは依存できるということがわかっていると、自分で購入して手元に置く本も決めやすくなる。
 図書館が開設されるまでの経緯や、設置を働きかける運動に文庫活動などを通じて関わった人々の話なども、協議会の委員を経験しなければ聞けなかっただろう。図書館ボランティアの実情を調べるために、県内の他市の図書館に出かけたり、図書館と小学校と公民館を併設している、隣接する市の施設の模様を見学できたのも、協議会のおかげだ。
 協議会の委員には市内の小学校の校長先生、社会教育関係者、絵画や写真が趣味の文化団体関係者、点字サークルのなどボランティア関係者、さらに源氏物語が専門の名誉教授など多彩な人が集まっており、その方々との交流も得がたいものだ。こんな経験を重ねると、地元の図書館に対する愛着が益々湧いてくる。
 協議会委員を務めていた6年間は、図書館の仕事を離れて総務関係仕事を担当していたが、図書館協議会そして図書館サポートフォーラムに関わることで、図書館の世界とのつながりが維持できたと思う。ちょうど、協議会委員の任期が満了するのと合わせるように、図書館の仕事に復帰した。
 前任者から、頼まれる形で引き受けたが、図書館協議会委員をやってよかったと思う。身近な図書館を良くするためには、行政に任せたままでは限界がある。PFIや指定管理者などの導入により、これからの公共図書館が進んでいく方向は今までとは違ったものになるのだろうが、身近な自分たちの図書館を維持、発展させていくためには、どんな形であれ、利用する人々の積極的なサポートが益々必要不可欠になっていくだろう。
⇒目次へ

公共図書館に望むこと―ライバルに負けないサービスを求めて―

戸田 光昭

1. サービスの教科書から学ぶこと
 旅行会社(障害者や高齢者の旅行をサポートしている会社)の社長は、その会社の競合相手(ライバル)は誰か?と聞かれた時に、つぎの3つを挙げている。
  • (1)トイザラス
  • (2)医療費、介護保険
  • (3)ベンツ、不動産
 これらは、一見すると何の関係もなさそうだが、つぎのようにその関連を書いている。
  • (1)トイザラスは、高齢者が孫に高額の玩具を買う場所。客に適切な旅行の提案ができないと、お金の使い道に困ってしまい、孫のために使ってしまう。その時に理由付けがしやすい消費に走る傾向があるという。
  • (2)医療費、介護保険は、外出や旅行の機会が少なくなると、高齢者は寝ていることが多くなり、本当に寝たきりになってしまうということから競合相手になる。さらに、医療費や介護保険などの社会保険費が増大してしまい、最終的に国の財政赤字をさらに多くさせ、増税が加速するという悪循環に陥るという可能性もある。良質な旅行を提案することが、国民個々人の負担を軽くするということに役立つのである。
  • (3)ベンツ、不動産は、この旅行会社の相手にしている客が、お金の使い道がなくなると気まぐれで高額の買い物をしてしまうということで、ライバルとなる。高齢者を相手にした悪徳業者がなくならないのは、高齢者の判断能力の問題だけではなく、良質なサービスが存在しないからなのである。これからの旅行会社は、ベンツや不動産に負けないような、魅力のある、高品質のサービスを提案していかなければならない。
(参考文献/『サービスの教科書』高萩徳宗著、東京、明日香出版社 2004年 198p.)

2. 公共図書館のライバルは何か?
 読書人口が減少している。その結果、無料貸本屋をめざしてきた図書館はその利用者数を減らしており、他方、著作権者からは、「公共貸与権」(公貸権)という図書館における本の貸与に対する補償制度を要求されるようになった。
 読書人口の減少と公貸権という二つの要因からみると、公共図書館の未来は明るくない。そこで、現状を打開するために、公共図書館のライバルは何かを考え、ライバルに優るサービスを提供すること、あるいはライバルを仲間に入れて、共に発展していくことをめざすことが急務になった。
 冒頭で紹介した高齢者向けの旅行会社のライバルの事例をみてもわかるように、思いもかけない相手がいるのである。では、公共図書館のライバルは何であろうか。
 先の例に出てきた旅行会社は図書館にとってライバルの一つかもしれない。もっと広く、具体的に考えれば、温泉施設かもしれない。あるいは園芸教室かもしれない。現実的に考えると、携帯電話が最強のライバルかもしれない。
 あるいは、あらゆる余暇サービス(余暇産業)がその競合相手だということになるかもしれない。

3. 情報社会におけるサービス
 現代においては、情報を消費することが、最大の余暇サービスのひとつである。広い意味で考えれば、旅行もそのひとつである。情報を使って旅行先を決め、情報を求めて旅行する。あるいは、自分の知っていることを確かめたり、さらなる情報を求めたりするために、楽しみを求めて旅行するのであろう。
 公共図書館は、このような余暇サービス要求に応えているであろうか。読書は余暇サービスのひとつであるが、都市内の電車で多い読書(新聞、雑誌を含む印刷物を読む行動)は携帯電話に奪われつつあり(参考文献/「電車で携帯、3年で音楽を逆転」朝日新聞2005年3月6日(日)付、朝刊、38面)、いずれ読書は印刷物でも読むが、携帯電話でも読むことが、あたりまえになるかもしれない。
 公共図書館は余暇のための機能と同時に、あらゆる情報要求に応えることが求められている。歴史的には、読書施設として始まった公共図書館であるが、現在では総合的な情報サービス施設として位置づけられている。
 したがって、印刷資料だけでなく、視聴覚資料、電子化資料ならびに、これら資料の情報源へのアクセスを提供することが求められているのである。それがインターネットを使った、ウェブサービスと密接に結びついていることはいうまでもない。

4. 図書館と博物館の融合―ハイブリッド情報センター―
 ウェブサービスが進んでいくと、図書館や博物館の利用者は、ますます、来館しなくても用が足りるようになる。ネット上で、ある程度までの情報要求を満たすことができるようになるからである。
 さらに図書館の重要な機能である蔵書の閲覧・貸出は、その貴重な蔵書資料をウェブ上で紹介することにより、博物館に近づき、博物館もウェブを活用することにより、情報検索サービスや情報提供サービスなどの、データベースを活用したサービスが日常的になると、図書館に近づいてくる。このようにして、図書館と博物館の差がほとんどなくなってくるのである。そして、来館しなくてもよくなり、建物に制約されなくなるのである。こうして、「館」としての機能が低下していく。
(参考文献/The evolution of library and museum partnerships, by Juris Dilevko and Lisa Gottlieb. Westport, Connecticut, Libraries Unlimited, 2004. 247p.)

5. 公共図書館の多面的な機能の実例
 上記のような機能を先取りした公共図書館が、すでに英国に存在している。それは、クロイドン図書館という。クロイドンは大ロンドンの南部にある自治区(市に相当する)で、人口は34万人である。
 クロイドン図書館は、中央図書館、12の分館、移動図書館、自宅サービス(外出できない利用者へのサービス)から成り、さらに観光情報センターを包含している。
 1890年に開館した歴史的な図書館は、103年後の1993年に、新しい中央図書館をビクトリア・タウンホールの附属複合建造物であるクロックタワー(時計塔)に新規開館した。この図書館は、その多面的機能から「ビクトリア朝の装置の中のサイバースペース(仮想空間)」と新聞報道されたほどである。
 新しい中央図書館の複合建造物「クロックタワー」には、歴史的なタウンホールと図書館に加えて、博物館、展示ギャラリー、映画館、観光情報センター、アートイベント・会議・集会などに使われているホールがある。このホールは、図書館に古くからあるレファレンス・コレクションの原本を所蔵していた。その革装本表紙のレプリカを壁に沿って配列して、現在でも歴史的な様相を保っている。
(参考文献/Exemplary public libraries, by Joy M. Greiner. Westport, Connecticut, Libraries Unlimited, 2004. 226p)
⇒目次へ

図書館に走ったウラシマタロウ

松下 鈞

 「暮らしの手帖」(1973年4月)に掲載されていたエッセーのことが長い間、気になっていた。

 そのエッセーには、英国の古本屋で偶然見つけたウラシマタロウの本に、こう描かれていたというのだ。竜宮城から久しぶりに戻った村には、既に我が家は無く、父母もおらず、見知らぬ人ばかりだったことに愕然としたウラシマタロウは、村の図書館に駆けつけ、人名事典を調べ、自分自身が300年前に漁に出たまま行方不明になった伝説の男だったことを知る、というのだ。日本の昔話では、そして、途方にくれた浦島太郎が乙姫様から貰った玉手箱を開けると、あっというまに白い煙に包まれ、見る見るうちにお爺さんに変貌する、とあったのではなかったか?

 私はそのエッセーから、絵本作者の住まう地域文化の中では、途方に暮れたウラシマタロウが、自分自身のことを知るために、図書館に駆けつけ、人名事典を調べ、自分が誰であるかを知る、というストーリーに改変しなければ読者が不自然だと感じる、と考える図書館文化があるということに軽い衝撃を受けた。

 それから30年以上も経って、長い間、気になっていたエッセーの事実確認のため、図書館に駆けつけたウラシマタロウの絵本探しを始めた。1973年以前のかなり古い出版物であること、ウラシマが図書館に駆けつけて人名事典を調べるというストーリーに改変されていること、英語の絵本か昔話であるらしいこと、これらを手がかりとしてウラシマタロウを探し始めた。国立国際子ども図書館、国際日本文化研究センターは言うに及ばず、国内外の図書館のOPACを使い、可能な限り見つけだしたウラシマ本を手に取って調べた。また、インターネットの検索エンジンを駆使してウラシマ情報を探した。しかし、見つけだした沢山の資料や情報からは「図書館に行くウラシマ」は見つけられなかった。

 昨年、音楽図書館学を講じていた東京藝術大学の隣には国立国際子ども図書館がある。昔の国立国会図書館の建物をリニューアルして、過去と現在がまぜこぜになった建築デザインも美しく、居心地が良いので、授業前には1階のカフェテリアでパスタランチを食べたり、授業の後には学生達と一緒にコーヒーを飲んだり、いわば止まり木のように使わせてもらっているだけだったが、あるとき、2階のレファレンス室に行って、暇そうなレファレンス担当者に冷やかし半分で、ウラシマタロウの図書館ばなしについて質問したのだった。数週間経って1通の封書が届いた。「村人がウラシマタロウの素性を村の記録で読んだことがある、という情報はあるけれど、質問とは違う内容だった」という内容の回答であった。

 まぁ、そんな簡単には判らないだろうなと思っていたところ、それから間もなく、2通目の封書が届いた。そこには、インタネットでデータベースを検索した結果、In Andrew Lang's Pink Fairy Bookを見つけ、そこからUrashimaとAndrew Langを掛け合わせた検索したところ、フランス生まれのイギリスの絵本作家 Edmund Dulacに辿りついた。さらにUrashimaとEdmund Dulacを検索すると、Edmund Dulac's Fairy-Bookにウラシマが収録されていたことが判った、と書かれていた。国立子ども図書館のレファレンス担当者からの回答には、さらに驚くべきことが書かれていた。Webcatで検索したところ、この資料は東京大学総合図書館が所蔵していることが判ったので、そこに出向いて資料を実際に調べた、というのだ。レファレンス担当からの手紙には「資料の内容を確認しました。図書館とは書かれていませんが、浦島太郎が、村の記録にある建物で、自分のルーツを本で知る場面が出てきます。お探しの資料だと思われますので紹介します」とあった。感激した。
 私の30年来の疑問は、その後、レファレンス担当者からの情報を基に検証し、さらに自分自身で東京大学総合図書館に出向いて資料を再確認したことで見事氷解したのだった。

 さすが、国立国際子ども図書館のレファレンス・サービスである。私たちはこんな素晴らしいレファレンス担当者を共有しているのだということを、感謝と喜びとをもって皆さんにお知らせしたい。
⇒目次へ

「図書館評価」をスタートさせよう

柴田 亮介

 ふぉーらむ第1号に、山崎久道さんが「授業評価」を書いていたので、これに触発されて評価について考えてみたい。私は、現在、一講座だけだが、立教大学社会学部産業関係学科で非常勤講師を務めている。この学科でも、昨年秋、学生による授業評価が実施された。その結果、私の授業は、学生の評価が極めて良かった。私にしてみれば、「当然そうだろう」という思いもあったが、正直、学生から正面から評価されたことは、本年の授業への励みになった。授業内容は「コミュニケーション」であるが、私は非常にユニークな授業方式を工夫して実施している。毎回の授業で、学生にレポート作成を課している。コミュニケーションについてなら何でもいいのだが、自分でレポートのテーマを発見するように指導している。なお、レポート作成時間は、30分間に限っている。(授業の前段90分の内容も工夫を凝らしているが、企業秘密としておこう)。私の用意した授業内容を、レポートに書いても全く評価しない、と学生に言ってある。そのようなレポートは評価対象にならないので、零点となってしまう。つまり、レポートテーマの発見、設定が、評価の分かれ道となるのである。私がレポート用紙を配ると、そのときから教室内は静寂を迎えて、カリカリ、コツコツという鉛筆の音が妙に大きく聞こえるようになる。みな、真剣にレポート書きに取り組んでいる。時間が来れば、途中でも提出してもらう。一人一人の顔を見ながらレポートを受け取るので、顔を覚える。私の仕事は、この後から始まる。自宅で全員のレポートに目を通し、5〜6行のコメントを赤で書き加えた後、評価としての点数をつける。翌週、学生にレポートを返却し、新しく書くレポートへの指針、参考にしてもらっている。なお、後期10回のレポート点数を加算し、成績としている。こういう方式をとっているので、事前に断りも無く2回以上欠席すると単位が取れなくなる危険性がある。一見学生にとって厳しいようだが、決して厳しいだけではない。私は、毎回一人一人にアドバイスコメントを書き、学生の授業への取り組みを評価し、フィードバックしている。学生は、常に講師からの評価を待っている。したがって、こういう授業を学生は歓迎し、評価したのである。つまり、学生が私の授業評価をすると同じように、私も学生を評価し、次の取り組み目標を示したのである。「評価の無いところに、進歩や改善は無い」と私は、考えている。
 私達の周囲を見回してみると、「評価が行われないと、次第に機能や活力を失っていく」ことがよく分かる。中には、ルール違反、犯罪ではないかと思われるものも見受けられる。
 大企業の倒産、整理機構の管理下への移行、厚生省、社会保険庁、病院、自治体、大学など目を覆うばかりの惨状である。外からの評価や意見を受け付けない状況にあれば、人や組織は必ず腐敗していく。子供たちも、親や指導者の目が行き届かなければ、どのように育っていくか極めて不安である。他者による評価、しばしば辛いことがある。必ずしも適していない評価者の存在、評価項目の不備、評価方法の曖昧さなどが指摘される。この結果、不平や不満が続出し必ず評価を止めようという話が出る。しかし、私は、評価をしないよりも、どんな評価であれ評価を実施するほうがよい、と思っている。それは、「その評価」が好ましくなければ、評価の仕組みや内容を積極的に変更すればよい、と思うからである。日本では、どの分野も「評価」に対して及び腰であったのではないか。正確に評価できないから、評価しないでおこう、といってそのまま蔵の中にしまっておいたのである。だから、環境の変化に対応できないばかりか、内側で通じる論理ばかりが支配することになったのだ。ここらで勇気を出して、私達の手の中に「評価」を取り戻し、正確な評価へと一歩ずつ踏み出したいと、私は願っている。

 さて、緒方良彦氏との共著、「情報センターの時代――新しいビジネス支援」(2005年1月、日外アソシエーツ)で、私たちは「評価が、図書館、情報センター、資料センターなどの改善、改革の活力を生み出す」ことを、強調した。とくに、赤字を抱える自治体が経営する公共図書館は、決して好ましい状況ではない、と思っている。したがって、いま図書館に課せられている公共的役割は何か、活動が利用者に貢献しているか、自分たちに都合のよい解釈をして活動してないか、「原点に立ち返り、図書館の役割と使命を明確にすべき時節を迎えている」と思う。このために、フォーラムが図書館、情報センターの評価基準案を作成し、業界に広く意見を求めてみてはどうか、と考えている。多くの方々のご意見をおきかせていただきたい、と願っている。
⇒目次へ

岩波新書と私

植村 達男

 終戦直後、疎開先の府中から世田谷に転居、父の転勤で神戸に移り住んだのが中学二年の夏のこと。それから大学を卒業する迄約八年神戸に住んだ。時期としては、一九五五年(昭和三十年)八月から一九六四年(昭和三十九年)の三月までのこと。その間の「本との出会い」が忘れられない。中学三年のとき、父が買ってきた岩波新書の新刊書『一日一言』(一九五六年)を読んだ。編者は桑原武夫。この本の四月十四日の項に、ザメンホフ(ポーランド生まれのユダヤ人)が登場する。エスペラントのことは、小学生時代に童話で読み、少しだけ知っていた。『一日一言』の半ページの記述により、エスペラントの考案者ザメンホフについての情報を得ることができた。翌年高校に入学。五月の文化祭で「海外文通クラブ」によるエスペラント関連の展示(ABC アー、ボー、ツォーの紹介等)を見た。これを主導したのが、二年先輩の池上徹(今は、神戸で弁護士を開業)。昨年、約四十年ぶりに神戸でご夫妻と歓談した。エスペラント展示については、神戸外大貫名美隆教授(故人)の指導を受けた由。この年の秋、「伝記を読み感想を書く」という国語の課題が出て、岩波新書の一冊、伊東三郎『エスペラントの父 ザメンホフ』(一九五〇年)を選ぶ。十五歳の頭脳に、この本は強い刺激を与えた。城戸崎益敏『エスペラント第一歩』(白水社)を購入、独習を始める。著者の人柄が伝わってくる良い本だ。城戸崎益敏は、元三和銀行勤務ということを後に知る。高校二年の秋(一九五八年)に日本エスペラント学会に加入。更に、高校在学中にエスペラント研究会を立ち上げた。早いもので、あれから約五〇年。私はいまだに日本エスペラント学会の会員である。思えば、深入りしてしまったものだ。
 大学にはいったものの、経済学という学問には興味をもてない。経済原論、金融論、経済政策、国際経済論といった人気ゼミには目もくれず経済史のゼミに入る。本当は経済地理のゼミを希望したが、生憎その年は募集がなかった。経済地理の教授が米国留学中に、現地で急死したためである。卒業論文は「植民地オーストラリアの生成と発展」というもの。このテーマを選ぶ前はスペイン語を勉強してラテンアメリカのどこかの国の歴史について書こうと思っていた。スペイン語という選択は、エスペラントから来ている。ともに、ラテン語から派生する単語が多く、憶えるのに楽。例えば、「本」という単語は何れの言語においても"libro"である。しかし、スペイン語を勉強するのは、時間的に間に合わぬと考え、オーストラリアに逸れた。オーストラリアを選ぶに当たっては、色々理屈をつけた。例えば、イギリスの欧州連合加盟(当時は未加盟)により、オーストラリアの眼がアジアに向く。そんなオーストラリアの歴史を見てみよう。といったものだったが、ここでは省略する。大学に入学早々、ラテンアメリカの入門書を読んだ。岩波新書の山本進『中南米』(一九六〇年)である。正直いって、この本は、私の期待する内容でなく、面白くなかった。お断りしておくが、これは著者のせいではなく、単に私の嗜好に合わなかっただけのこと。
 学生時代の私は、あまり勉強しなかった。「成績を良くする」ことについては殆ど関心がなかった。ただし、好きな本はよく読んだ。谷崎潤一郎の『細雪』『蓼食う虫』に親しんだ大学四年のとき。これら作品を読んだことが、三十五歳のときに最初の随筆集『本のある風景』(一九七八年、勁草書房)を出版する遠因となる。岩波新書や朝日ジャーナルからは、多種多様な知識情報を吸収した。岩波新書は、今日に至るまで細々とお付き合いを続けている。朝日ジャーナルは、社会人になってからも購読した。しかし、一九七〇年前後に、編集方針が変わった(おかしくなった)。これを機に購読をやめた。その後、永らくバックナンバーを所持していたが、父の死に伴い家を処分することになり、置き場がなくなり、その大部分を処分した。ただし、一部はマルゴト保存している。また、ページを切り抜いてテーマ別のスクラップ・ファイルにいれたりもしている。

 最近になって、高校・大学の同級生が相次いで岩波新書を出した。最初は神戸新聞論説委員、ラジオ関西社長などをつとめた山口一史。柳田邦夫『阪神・淡路大震災10年』の分担執筆者として登場した。今の山口は、NPO法人ひょうご・まち・くらし研究所常務理事をつとめる。これが昨年十二月のこと。つづいて今年の二月に、山家悠紀夫(やんべ・ゆきお)の『景気とは何だろうか』が出た。山家は、第一勧銀総研専務理事から母校の神戸大学経済学部教授に転じ、定年までの三年間を学者として過ごし、今は暮らしと経済研究室を主宰している。
 ここまで書いて思い出したことがある。神戸にいた高校三年のこと。会社から帰った父が、一冊の岩波新書を見せてくれた。島崎敏樹『心で見る世界』(一九六〇年)である。父はニコニコして、「中学時代の友人が岩波新書を出した」と私に言った。父と島崎敏樹は旧制中学卒業以来、年賀状を交換していた仲。暫くして「オトーサン、あの本読んだ」と、私は尋ねる。父は、ただ苦笑いするだけ。「あ、わかった。難しくて、読めなかったんだ」と私。父は、無言。何も答えなかった。私の場合は、幸いにして同級生の著書は何れも読めた。父は、東京商大(現一橋大)卒の会社員、島崎敏樹は、東京医科歯科大教授で、精神科の医師。分野が違いすぎる。後年、父は食道癌で東京医科歯科大に入院した。そのとき担当の医師に「島崎敏樹君とは中学の同級生」と言った。その医師は、ちょっとかしこまって「島崎先生の授業を受けました」と答える。その瞬間、医師と患者の間の分厚い壁が少し壊れたような気がした。
⇒目次へ

忘れえぬ図書館人−2−武田虎之助(1897.10.24−1974.11.8)先生

 武田虎之助先生には図書館職員養成所で「図書館通論」を聴講した。図書館が建物ではなく、建物の中に資料があり、それを操る人、即ち図書館員がいて、初めて図書館なのだと最初の講義で熱意を込めて話された。先生の講義の内容は理想社刊「図書館実務叢書」の『図書館学概論』と大体一致している。最後、尻切れ蜻蛉のようでもあった。当時は図書館法制定前夜、先生は事務方として多忙を極め、授業どころではない日のあったかも・・・。
 武田先生は明治30年宮城県遠田郡南郷村に出生された。仙台藩は戊辰戦争で朝敵となり、南郷村は没収されたが、藩侯伊達家親族の足軽であった武田家は帰農して平民身分に治まり地所を確保した。この農家の長男に生まれ「薩長土肥にはいつか目にものみせてくれる」気概を培っていた。学歴は高等小学校卒ながら地域青年の集りで頭角を現し、郡長お声掛りで1917(大正6)年9月郡役所雇として勤務。文書整理が主務で、県立図書館巡回文庫も扱った。郡長が若手の有能職員を自慢したのを伝え聞き、東北帝大付属図書館司書田中敬から手紙を貰い、1920年7月同館へ転勤。外国語学習を求められ、大学の課外講座で英独仏語習得。教材に関連し、石川千代松『進化論講座』や永井潜『生物学と哲学との境』等を読み、自己の思想形成に裨益大。1922年学内紅一点的存在の女性と結婚、三男一女を育てた。1923年日本図書館協会創立30年記念回(於南葵文庫)出席、入会。1924年2月、仙台図書館懇談会(会長/林鶴一東北帝大図書館長)発会。4月例会に武田「無産階級文化に於ける図書館の位置と使命」を講演。庶民に対する図書館サービスと庶民の求める図書館サービス、両者をいかに重ねたらよいか論じた。1928(昭和2)年5月、勧誘され台北帝大司書に転任。図書館長田中長三郎が柑橘学の権威、米国で図書館を深く経験し、武田に図書館フィロソフィーを伝授した。1933年青年図書館員連盟入会。1934年4月「C.D.U.概説」を『図書館研究』7巻2号に発表。加藤宗厚は「日本語で書かれた同分類法最良の解説」と絶賛。この前後、目録法の論文多数発表。但し5月辞職し内地へ戻るが困窮し、昔の上司田中敬が司書官の阪大を頼り1937年5月大阪帝大司書就職。連盟・目録委員会実行委員にも選ばれる。低給料に1939年阪大辞職。9月大阪外国語学校事務嘱託、図書室主任。中田邦造の斡旋で1940年7月東京帝大事務嘱託、付属図書館勤務。1944年2月東大法学部勤務、研究室(図書館)事務主任。1948年4月嘱託制廃止、東大法学部調査員に任命替。6月文部省社会教育局加藤宗厚の推薦で同局調査員に転任、主に「図書館法」制定準備担当。千載一遇の館界変革期に際し、彼の大活躍が始まる。巧みな表現を持つ能弁と東北人独特の重厚な姿勢で粘り強く対者を説得した。1949年4月〜64年3月図書館職員養成所講師併任。6月任文部事務官、社会教育施設課勤務。7月日図協目録委員会主査に選出さる。1950年6月〜54年12月、56年12月〜59年8月『図書館雑誌』編集委員長。1951年10月日図協創立60周年記念に館界功労者表彰受けた。11月転官配置後、文部教官・東京学芸大学講師。学校図書館学講座建設に励む。12月〜61年5月日図協常務理事。1952年4月東京学芸大学付属図書館副館長被命。1953年6月日本図書館学会常任理事に選出さる。8月日図協・図書館憲章委員会委員に選出さる。1954年3月助教授昇任。5月〜61年4月日図協・出版委員長。1959年11月社会教育功労者として文部大臣表彰受ける。1961年2月教授昇任、3月定年退職。4月鶴見女子短大教授就任。5月日図協顧問に推挙さる。1962年4月東洋大学教授就任。1963年6月〜65年文部省大学設置審議会専門委員。1966年4月鶴見女子大学教授就任、付属図書館長兼務。1969年5月勲四等瑞宝章叙勲。昭和49年逝去、享年76。(『武田虎之助先生古稀記念論文集 図書館と社会』1970所収石井敦編「略年譜」、「故武田虎之助氏追悼」図雑69巻3号1975、p143・46より)
 酒豪であった。いかにも楽しそうに飲まれた。また他人の美点をよく認め、欠点に寛大なところは、さすが苦労人といわれた。
 東洋大学から私は1964〜73年司書講習講師(参考業務・同演習担当)を委嘱され、幅広く勉強する機会を得たが、推挙頂いたのは武田先生と仄聞、深謝している。
⇒目次へ

家族から見た元司法大臣岩村通世先生

高山 京子

一 岩村通世先生との出会い

 元司法大臣岩村通世先生は、かつて司法界において一時代を築き、燦然と輝く業績を残されました。現在、その業績について語られる機会は決して多いとはいえませんが、岩村先生は、陪審制度の研究のためドイツに留学され、あるいは昭和戦前期の司法制度調査委員会等において法曹養成に関する議論に参画されるなど、現在の司法制度改革に通じる多くの問題に関与されています。
 昨今は、裁判員制度の実施を前にして、法教育の必要性が声高に叫ばれていますが、私自身二人の孫を持つ者として、どのような形で自らや孫たちが法に接し、学ぶことが望ましいのか、一概に結論を出すこともできず考えてしまいます。先日、法務省などが主催する「法教育シンポジウム」が行われ、私も出席しましたが、その場でも、中学生を対象に契約の成立について考える授業が紹介されるなど、「契約」や「裁判」をより身近に捉えるために必要なアプローチとして、様々な取り組みが試みられていることを実感しました。
 このような中、法教育へのアプローチの様々な方法の一つとして、温故知新の気持ちを持ちながら、我が国の法制度の歴史や、これに携わってきた先人の業績及びその人柄に触れることは、今を生きる私たちにとって、それが法曹に関わる者としてであっても、一国民としてであっても、大変有意義なことといえるのではないかと思います。
 ところで、私は現在、法務図書館で行われている未整理図書整理作業の一環として、岩村先生のご遺族から寄贈を受けた「元司法大臣岩村通世立法資料」の整理作業を行っています。この資料は、元検事総長馬場義続氏の斡旋により、岩村先生がお亡くなりになった昭和四〇年に寄贈を受けた資料であり、これらの資料を整理することによって、先生が関与されていた昭和戦前期の司法制度改革論議の一端を明らかにできるものと期待されています(資料の寄贈経緯については、元検事総長馬場義続氏のご子息に当たる馬場義宣学習院大学法科大学院教授(元法務省保護局長、元最高検察庁検事)からお話を伺うことができましたが、このことは、資料の性質及び岩村先生の人物像を知る上で大変幸せな出来事でした。)。
 先述したような関心、そして「元司法大臣岩村通世立法資料」の整理作業に係わっているという切っ掛けから、岩村先生について調査を進めていました折、伊藤隆政策研究大学院大学教授から、岩村先生のお父さまに当たる岩村通俊氏(農商務大臣、貴族院議員などを歴任)にゆかりの方々が、親戚一同お揃いでの会合を毎年開催されているとのお話をいただきました。伊藤教授御自身、岩村通俊氏の研究でも知られた方ですが、その通俊氏もまた、明治九年に起こった萩の乱の際に山口地方裁判所長として活躍し、明治一七年から同一九年にかけては司法大輔(現在の次官)を務められるなど、司法に多大な貢献をされた方であり、岩村家は代々にわたって司法と深く関わっておられるといえます(なお、岩村家にゆかりの方々は、政界をはじめとする各界で活躍されています。詳しくは、ここに掲載させていただいた系図をご覧ください。)。
 こうした様々なご縁を好機として、さっそく、岩村先生の行動や考え方に直接触れられた方がおられないか、また、そうしたお話を聞かせていただけないかとのお手紙を岩村家の方々にお送りしたところ、岩村先生の三男に当たる岩村敏通氏から、ご丁寧なお返事が届いたのでした。岩村敏通氏は、司法界で活躍される岩村先生の姿を間近で見てこられた方であり、岩村先生の伝記を刊行する際にも尽力されたといいます。岩村先生の業績を語る上では、正にこの上ない方といえるでしょう。こうして岩村敏通氏や、また、岩村家の窓口となってくださり、ご自身も岩村先生の甥に当たる岩村和俊氏と、お手紙やお電話をやり取りする中で、直接お会いして岩村先生についてのお話を伺えることになったのでした。
 この聞き取りは、岩村和俊氏のセッティングにより、平成一六年六月二四日の一一時から霞が関の昭和会館にて行われることになり、先方からは岩村敏通氏、岩村和俊氏のお二人が、当方からは高山のほか、ともに法務図書館での資料整理作業に携わり、慶應義塾大学大学院法学研究科に在籍して法制史を学ぶお二人の大学院生、神野潔氏、児玉圭司氏がご一緒しました。ここでは、その時の貴重なお話などをもとに、岩村先生の業績とそのお人柄の一部を記してみたいと思います。

二 岩村通世先生の略歴

 岩村先生は、岩村通俊氏の五男として明治一六(一八八三)年八月二一日に東京の神田で生まれました。父・通俊氏の北海道庁長官としての赴任に伴い、幼稚園時代は北海道で過ごしますが、その後は父の地元である高知県宿毛市で叔父の林有造氏(衆議院議員、逓信大臣、農商務大臣などを歴任)の家に起居して宿毛小学校に通い、次いで高知県立第一中学校で学びます。中学校卒業後は、岡山の第六高等学校を経て、東京帝国大学法科大学に入学しました。
 東京帝国大学法科大学を卒業した明治四三(一九一〇)年、岩村先生は司法官試補として甲府地方裁判所に赴任します。これによって先生は、司法官としての道を踏み出したのでした。大正元(一九一二)年末からは東京地方裁判所・区裁判所の検事として八年間を過ごし、シーメンス事件や八幡製鉄事件など、政治史上の著名な事件に関与します。その後も大正九(一九二〇)年の司法省参事官を皮切りに、大臣官房秘書課長、大臣官房保護課長、東京控訴院検事局次席検事、名古屋地方裁判所検事正といった要職を歴任することとなりました。この間の岩村先生は、少年法の公布を目の当たりにしたほか、第三代の保護課長に就任し、あるいは名古屋地方裁判所検事正時代に少年審判所の設置を働きかけるなど、先生が生涯を通じて尽力することとなった少年保護との関わりを深めています。
 昭和九(一九三四)年、岩村先生は東京地方裁判所検事正として再び東京に戻り、以後、司法省刑事局長、大審院検事局次長、司法次官、検事総長を経て、昭和一六(一九四一)年七月二五日付けで司法大臣に就任します。この期間は、我が国の検察・司法にとってもまさに多端の時であったといえ、司法大臣就任以前の岩村先生は、東京地方裁判所検事正として帝人事件、天皇機関説事件を扱ったほか、刑事局長時代に起こった二・二六事件の際には法曹会館で指揮を執るなど、時々の重大事件の処理に間近で携わっています。そして、東条内閣の司法大臣となった先生は、日米開戦の詔書に国務大臣として副書し、このためもあって戦後、A級戦犯として巣鴨プリズンに拘禁されることとなったのでした。
 戦後の岩村先生は、昭和二〇(一九四五)年九月から三年三か月にわたる巣鴨での拘禁生活を経験しますが、容疑が晴れて釈放された後、東京弁護士会に入会して弁護士としての活動を開始し、また、東京家庭裁判所の調停委員としても活動を行います。昭和三三(一九五八)年には財団法人日本調停協会連合会の理事長に就任し、以後四年間にわたり同職にあって活躍します。そして昭和四〇(一九六五)年三月一三日に、八三歳でその生涯を閉じました。

三 高知県宿毛市との関わり

 岩村先生は、すでに述べましたとおり通俊氏の五男として明治一六年に生まれ、東京神田、北海道などに住みますが、小学枚・中学校時代は、父・通俊氏の意向や叔父・林有造氏の勧めもあって、高知県の宿毛及び高知で過ごすことになりました。この、父の出身地である宿毛の地は、岩村先生にとってもかけがえのない故郷となったようで、先生は高知県や宿毛市と、生涯を通じて関係を持ち続けています。

 そのような岩村先生と宿毛の関係を示すエピソードの一つに、宿毛小学校の門標に関する逸話があります。先生が通った宿毛小学校は、昭和三三(一九五八)年に建て替えられることになり、同じく新造される門標の揮毫を誰に依頼するかが議論となりました。宿毛小学校は元首相吉田茂氏をはじめ多くの著名人を輩出していたことから、人選については多くの候補が挙がるであろうと予想されましたが、全会一致で岩村先生に白羽の矢が立ったそうです。教育にも力を注いでいた先生は、この依頼をことのほか喜び、「教育のための揮毫の依頼は初めてのこと」と、至極上機嫌であったといいます。なお、この門標は現在、宿毛小学校のホームページ(http://www.kochinet.ed.jp/sukumo-e/iwamuramitiyo.html)で閲覧することができます。
 また、敏通氏のお話によると、宿毛市出身者の集いである「東京宿毛会」が、毎年一回開催されており、岩村先生はこれにも長年参加していたそうです。この「東京宿毛会」は、先生や、元最高検察庁検事吉良慎平氏などが所属していたことが縁で、現在でも法曹会館で開かれているとのことでした。
 この他にも岩村先生は、高知県出身の子弟の教育に情熱を注いでおられたことで知られ、故郷への貢献は生涯を通じて多大なものであったといえるでしょう。
 なお、元中央更生保護審査会委員長石原一彦氏からお伺いしたところでは、石原氏が宿毛市へ出張なさった折、同地では現在でも岩村先生の名が知れ渡っており、尊敬の念を持って語られていることを実感されたそうです(石原氏からはこの他にも、岩村先生にまつわる多くの貴重なお話をお伺いすることができました。)。

四 司法省時代に得たライフワークと人脈

 略歴の部分でも触れましたが、岩村先生の、司法保護・少年保護に対する造詣は、司法省参事官、保護課長、名古屋地方裁判所検事正として過ごした時期に深められたようです。そして、小川太郎氏(元法務府成人矯正保護局長、元亜細亜大学教授。(元保護局長、元福岡地方検察庁検事正、日本BBS連盟会長佐藤勲平氏の義父でいらっしゃいます。)と中尾文策氏(元法務省矯正局長、元財団法人矯正協会会長。晩年には、社会福祉法人乳児保護協会会長などを歴任され、生涯を通じて矯正や社会福祉事業に尽力しておられましたが、平成三年に八七歳で亡くなられました。余談になりますが、私が法務図書館に勤務しておりました当時は、小川先生、中尾先生ともお元気でよく法務図書館をご利用下さり、様々なご指導をいただきました。)の対談である「行刑の実践者たちを語る」にも、「司法大臣として、行刑に大変色々とよいサゼスチョンをしていただいた岩村通世さんがおられますね」(小川太郎・中尾文策(共著)『行刑改革者たちの履歴書』(財団法人矯正協会、昭和五八年)所収「行刑の実践者たちを語る」三一七―三一八頁)などと、司法大臣在任中及びその後の活躍について言及があるように、司法保護・少年保護と先生との関わりは生涯を通じてのものとなりました。先生が司法保護・少年保護をライフワークとするにいたった契機が何であったのかをお尋ねしたところ、敏通氏は幾つかのエピソードを披露してくださいました。一つには、大正一三(一九二四)年から翌年にかけて欧米各国に出張した際のお話です。これは、本来、ドイツの陪審制度の研究を主眼としていたそうですが、岩村先生は、当時先進的とされていたドイツの少年法についても研究に余念がなかったといいます。少年法の公布後であるこの時期に、先生の関心が既に司法保護・少年保護に及んでいたことを示すものといえるでしょう。もう一点、名古屋地方裁判所検事正時代の少年審判所設置をめぐるお話もまた、先生の少年保護への熱意を感じさせるものでした。名古屋に赴任した岩村先生が最も注意を払った事柄が、同地における少年犯罪であったそうです。少年犯罪を抑止したいとの観点から少年保護施設の必要性を痛感した先生は、司法本省や県をはじめ、財界、宗教界に対して積極的に働きかけ、こうした努力が実を結び、名古屋少年審判所をはじめとする諸施設が設置されることとなりました。当時、まだ三府二県(東京、京都、大阪、神奈川、兵庫)にしか施行されていなかった保護処分を、岩村先生の名古屋地方裁判所検事正在任中に愛知、岐阜、三重の三県で実施できたのは、先生の念願が叶ったものといえるでしょう。

 なお、岩村先生は、司法官として多くの人物に仕えましたが、敏通氏のお話によると、とりわけ平沼騏一郎氏(司法大臣、貴族院議員、枢密院議長、内閣総理大臣などを歴任)、元司法大臣小原直氏、元司法大臣塩野季彦氏などから薫陶を受けていたそうです。特に平沼氏に対しては、生涯私淑していたといっても過言ではないとのことでした。職務上も平沼氏の後を継ぐような形になり、第三次近衛内閣における岩村先生の司法大臣就任は、司法界の長老である平沼氏の意向なども踏まえた上での近衛文麿首相の決断であったといいます。こうした関係から、第三次近衛内閣下の治安対策は、国務大臣として入閣していた平沼氏や司法大臣であった岩村先生の強い連携の下で遂行されることになりました。なお、昭和一六(一九四一)年八月には、平沼氏が私邸を襲撃され負傷するという事件が起こりましたが、この時の先生の心痛ぶりは、ご家族の記憶にも鮮明に残っているとのことです。
 塩野氏との関係において岩村先生は、塩野司法大臣の下で、大審院検事局次長、司法次官として仕えています。大審院検事局次長在任中には、かつて先生が東京地検検事正として捜査の指揮を執った帝人事件について、被告全員が無罪になるという事態が生じました。これに対して塩野司法大臣は控訴権の放棄を決定しますが、道義的責任を感じた先生は塩野司法大臣にあてて進退伺書を提出します。塩野司法大臣は、この際、道義的責任は存在しないとして先生を慰留した上で、その苦悩に報いるため、司法次官への栄転を決定したということです。
 なお、今回お話を伺った際、敏通氏から、岩村先生に関係する一〇通余りの書簡をお見せいただきましたが、その中にも平沼氏から先生にあてられたものが数通見受けられ、両者の厚い親交をうかがうことができました。また、同じく先生の遺品としてお持ち下さった、塩野氏が揮毫した扇(写真にある扇を、この度、敏通氏から頂戴いたしました。この扇の字を認められた元司法大臣塩野季彦氏は、元最高裁判所判事塩野宜慶氏(塩野先生は昭和四三年六月一五日から同四五年一〇月二七日まで保護局長の職に就いておられました。)のお父さまに当たります。)なども両者の関係をしのばせるに足るものであり、当時の司法界に連なる人脈の中に、先生がいかなる地歩を築いていたかが分かります。

五 戦中・戦後の岩村通世先生

 戦中の岩村先生は、司法大臣として、我が国の司法の中枢に位置していたといえるでしょう。また、東条内閣の司法大臣として開戦の詔書に副書したことなどから、戦後にはA級戦犯として拘禁されることとなります。このような激動期にあった先生のエピソードとして、敏通氏や和俊氏から語られたのは、その大部分が戦争で亡くされたご子息についてのお話でした。
 岩村先生には四人のご子息があり、戦時中には四人とも軍務に従っていますが、そのうち陸軍航空中尉であった次男の竹俊氏は、昭和一八(一九四三)年六月六日に米軍戦闘機との交戦を経て戦死を遂げられます。現職司法大臣の子息の戦死として、このことは新聞各紙にも取り上げられ、また昭和一九(一九四四)年には雑誌『富士』第二〇巻第一号(昭和一九年一月一日発行)の誌上でも、先生と作家・吉川英治氏との村談をもとに紹介されました。敏通氏からは、先生がご子息の戦死に大層心を痛められ、戦後になってから、竹俊氏に関する資料や情報の調査・収集を行った上、その成果を小冊子の形にまとめて遺族の間に配布されたと伺いました。なお、後のことになりますが、岩村先生はその遺言で、ご自身の遺骨を竹俊氏の眠る多磨霊園に埋葬するよう希望されたとのことで、先生のお墓は現在、竹俊氏のものと並んで多磨霊園に建てられています。この一事をもってしても、ご子息に対する先生の想いはうかがうに余りあるといえるでしょう。
 また、A級戦犯として巣鴨プリズンなどに収監された岩村先生は、不起訴となって昭和二三(一九四八)年に釈放されますが、不起訴となったことは、血縁の方々にとっても奇跡のように感じられたそうです。東京裁判に当たって、開戦の詔書に副署したことが問題と考えられる中で、ご家族は先生から、「副書の責めを問われたら一切弁護してはならない」と厳命されていたとのことですが、これもまた先生の厳粛な心情が伝えるエピソードといえるでしょう。

六 家族から見た岩村通世先生

 ところで、岩村家の方々から見た岩村先生やそのご家庭の印象はどのようなものであったのでしょうか。敏通氏、和俊氏に思い出をお尋ねしたところ、先生と奥様との仲睦まじい姿が思い浮かぶようでした。先生は、明治四五(一九一一)年に奥様と結婚し、四男二女をもうけています。奥様は良妻賢母であったとのことですが、和俊氏からは、郷里高知での厳しくも微笑ましいお話を伺うことができました。ある日、先生が郷里の者とお酒を交わす中で口論となり、警察官を呼ばれる事態になったのだそうです。呼ばれてきた警察官は、先生が司法界で名が知れていることに遠慮をして、もう一方の当事者のみを連れて行こうとしました。これを知った奥様が、「喧嘩両成敗ですからうちの主人も連れて行ってください」と毅然と発言されたというのです。奥様について両氏がおっしゃっていた、「しっかりとした方」という印象は、こうした逸話から生まれたものでしょう。
 また、敏通氏、和俊氏がともに指摘された岩村先生の印象として、「柔軟」「リベラル」といった言葉がありました。特に、学問としては何を学ぶにも自由といった姿勢を持っていたことや、和俊氏が将来のことについて悩みを抱えていた際に、親族のほぼ全員が反対する中、先生だけが「やってみろ」と背中を押してくれたこと、などをお話しくださいました。その一方で、議論になって負けたら、「自分は宿毛湾に入って死ぬ」などと発言するような、気性の荒い側面もあったとのことで、両氏とも岩村先生の土佐人気質を指摘されていました。
 その歴任された役職からは、謹厳実直なイメージがもたれる岩村先生ですが、ご家族の方から見た先生とその家庭には、包容力のある先生の下、自由闊達な雰囲気が醸成されていたようです。なお、ここに掲載させていただいた写真は、敏通氏からお護りいただいたもので、岩村先生と、奥様でいらっしゃる八重様のお写真です。

七 おわりに

 以上、敏通氏、和俊氏のお二方からお聞きした内容のうち印象的なエピソードを、岩村先生の生涯に沿って記してきました。ここでは、先生の生涯を断片的に取り上げて紹介することしかできませんでしたが、先生に関する伝記・評伝としては、岩村通世伝刊行会編刊『岩村通世伝』(昭和四六年)、「岩村通世」(警察文化協会編刊『警察時事年鑑 一九七九年版 歴代法務大臣』所収、昭和五三年、加用信憲「洗心余滴 一六」(『日本医事新報』二一四二号、昭和四〇年)などがありますので、より詳しくお知りになりたい方は、これらの著作に触れられるとよいかと思います。
 なお、今回の聞き取り調査にあたっては、貴重なお時間を割いていただいた岩村敏通氏、手紙のやり取りや聞き取り会場の手配など、当方との窓口になってくださった岩村和俊氏のお二方に、大変お世話になり心から感謝とお礼を申し上げます。元中央更生保護審査会委員長石原一彦氏、伊藤隆教授、馬場義宣教授をはじめ、多くの法曹関係者、研究者の方々にもご協力をいただきました。皆様にはこの場をお借りして、心から御礼申し上げます。また、神野氏、児玉氏に感謝を申し上げます。
 今回の文章が、昭和戦前期の司法に一時代を築いた岩村先生のお人柄をしのぶ上でいささかでも手がかりとなれば、大変幸せに思います。
(「法曹」第六五二号 平成一七年二月号より転載)
⇒目次へ

IFLA大会とのおつき合い

田中 梓

 長らく図書館界で仕事をしてきた私がIFLA(国際図書館連盟)の年次大会に参加するようになったのは一九七四(昭和四十九)年の米国ワシントンの大会からである。その後、マニラ(一九八〇)、ライプチッヒ(一九八一)、ミュンヘン(一九八三)、ナイロビ(一九八四)、シカゴ(一九八五)、東京(一九八六)、ブライトン(一九八七)、シドニー(一九八八)、ストックホルム(一九九〇)、バルセロナ(一九九三)、ハバナ(一九九四)、イスタンブール(一九九五)、北京(一九九六)、アムステルダム(一九九八)、バンコック(一九九九)、ボストン(二〇〇一)、グラスゴー(二〇〇二)と計十八回の大会に参加してきた。このように多くの大会に参加し、IFLAとの接触をもったのも国立国会図書館(NDL)時代に国際協力担当の部署に在職していたり、日本図書館協会(JLA)の国際交流委員会の委員や委員長を長らくつとめていたからである。
 大会参加の仕方は東京大会以前は一回を除いてNDLの出張で、NDL退職後はJLAの出張もしくは自腹でという形をとった。参加の理由にもいろいろあった。一九八一年から一九八八年まではIFLAの収集・交換分科会の常任委員をつとめていたために、一九七四、八〇、八一、八四、八五の各年の大会には国立図書館長会議に出席する館長あるいは副館長の補佐もしくはその代理として参加した。一九八七年のシドニーから一九九九年のバンコックまではJLAの国際交流委員会の委員長もしくは委員としての参加であった。
 NDL時代は所属の分科会の会合はもちろん、国立図書館長会議や国立図書館分科会の会合に出席、JLA時代は図書館協会運営ラウンドテーブルをはじめ、公共図書館や大学図書館などの分科会を中心に興味ある議題を選んで出席聴講した。NDLやJLAを代表して参加した場合は協議会(Council)における投票の義務があった。日本を出発する前にあらかじめ賛成、反対あるいは選出したい理事等を決めて、協議会で投票を行うものであった。あとは開会式、閉会式、展示会、ポスター・セッション、レセプションなどに自由に参加した。大会組織委員会が催す各種のレセプションやイベントは世界各地からの参加者相互の親睦をはかる大へんよいチャンスであった。以上は毎回の大会に共通した参加の内容である。
 一九八六年の第五十八回東京大会は日本の図書館界が世界の図書館人に直接顔を合わせた最大のイベントであった。その始まりは一九八〇年のマニラ大会におけるJLA理事長浜田敏郎さんによる六年後の東京開催の宣言であり、それから六年間、日本の図書館界はJLAを中心に開催準備に多忙をきわめることになる。NDLからは高橋徳太郎副館長をはじめ十数名が組織委員会およびその下部の委員会や小委員会の構成メンバーとしてかり出された。開催の年は年初から俄然忙しくなった。たまたま、その頃勤め先NDLの新館移転と機構改革が重なり、まさに超多忙の時期でもあった。私は今まど子さんを委員長とするプログラム委員会のメンバーとしていくつかの分科会を担当し、また広報委員長として"Librarianship in Japan"の編集や期間中毎日発行される "IFLA Express" 刊行の責任者でもあった。ともかく、この期間は私の人生で最もよく働いた時期の一つであったといえる。あまりの忙しさに今は亡き三菱総研の宮川隆康さんと早くIFLA大会が終わらないかなと嘆き合ったことを思い出す。
 NDLを辞め、JLAの役職から離れてフリーな立場になると、協議会での投票、ペーパー発表、あるいは帰国後の報告などの義務から解放され、会議への参加・聴講も全く自由で、面白そうなものだけにして、あとは大会プログラムにある小旅行や同伴者(何度か女房を同伴)向けのツアーにもぐり込むなど、だんだん無責任な参加の仕方になっていったようだ。今年の大会は八月にオスロで開催される。北欧諸国でノルウェーだけはまだ滞在の経験がないので、是非参加してみたいと思っている。しかし、東京大会でいっしょに仕事をしたIFLA事務局の連中もみな辞め、各国の参加者に知った顔も少なくなったし、また八十歳を越えたこちらの身も考えて、このあたりで打ち止めにしようかとも思っている。
⇒目次へ

専図協への期待

末吉 哲郎

 ”日本の統計の戸籍台帳として大きな意義”(大内兵衛氏)”統計界の反省の資料としての位置づけ”(中山伊知郎氏)などその分野の権威に当時絶賛されたのは、専門図書館協議会が昭和34(1959)年作成刊行の「日本統計総索引」(A5版 1570頁、東洋経済新報社刊)である。昭和27(1952)年に結成発足した専図協は当初より官産学の機関を網羅する全国会員ネットワークを駆使して各種書誌索引作成事業に精力的に取り組んでいるが、このプロジェクトもその一つである。戦後新たに施行実施されたわが国の膨大な統計資料が公刊されるのは日本統計年鑑などその摘要部分だけで、その全貌が掴めないので個々の統計調査を補足する手段がなく統計利用者は困っていた。専図協ではこれを官庁統計、民間統計を網羅して個別統計のレベルで事項別、件名別の索引を集大成しようとする試みを実行した。昭和32年1月から2年2ヶ月の期間に主要統計機関16機関の統計担当者、図書館関係者、統計専門家の参加をもとめた編集委員会のもと、回収した基本カード32000枚を総合調整、分類排列して前記の大著の刊行に結びつけた。この結果は図書館や統計関係者のみならず学界や社会に大きな影響を与えた。
 専図協三十年史によればこの他にも全国の調査研究機関図書館の蔵書内容、専門コレクション、索引を付した「調査機関図書館総覧」(A5版375頁、索引80頁)を昭和31(1956)年11月に刊行広く頒布しているが、これは現在も続けられている「専門情報機関総覧」のはしりである。
 これらの専図協の書誌・索引活動の中で、同じように社会的に評価されるのは会社史の総合目録の編集ではないだろうか。
 社史や団体史はその資料の歴史的、実証的な価値が高いにかかわらず、非公刊の形で刊行されるので、その所在をつかむのが困難であった。そこで企業・経済団体、研究機関、国会図書館・支部図書館を網羅する専図協の組織を利用すれば効果的であるとのことから昭和53(1978)年関東地区社史研究グループでは主な社史所蔵図書館10機関によるユニオンリスト「社史・経済団体史総合目録」作りを開始し、各年毎にその追録を刊行した。その後このプロジェクトは他地区有力機関を含めた全国版に拡大したのであるが、昭和56(1981)年三十周年記念事業の一つとしてとりあげられ、全国的なネットワークのもと、経営史関係の研究者の参加ももとめて、全国版社史総合目録編集へとさらに発展をさせることになった。
 情報提供の参加をもとめたのは全国の43機関(企業4、団体10、研究機関7、大学17、公共図書館4、国立国会図書館1)で、明治以降刊行された会社史についての情報を記載したカードは7万枚に達した。これを関東地区の社史グループが中心となって分類整理を行なったが、データ内容が膨大であり、かつ専門家の知識を必要とすることから編集業務を財団法人日本経営史研究所に委託した。
 この結果昭和61(1986)年2月に「専図協30周年記念会社史総合目録」(B5版508頁、日本経営史研究所編・刊、丸善発売)として刊行された。収録総数は会社史6127点、経済団体史783点を数えたが、この結果は欧米諸国のいずれよりも多い刊行点数であることが実証され、日本のビジネスアーカイブの水準の高い一端を示すことが出来た。
 その後、この総合目録は1996年に増補、改訂されており、専図協関東地区が中心となって年2回の追録作成も行なわれている。ただ残念なことに最近では参加機関が8館と減少し、関東地区以外の参加はなくなり、何より国立国会図書館と前記の総合目録作りに中心的役割を果した財団法人日本経営史研究所が参加機関から姿を消している。その事情は詳しくは不明であるが、些細な連絡の行き違いや資金面のことであるとすればはなはだ残念なことである。とくに地方の企業や中小企業の会社史・団体史がこのことで顕在化しないとなれば資料的価値も下がり全国書誌ナショナルビブリオグラフィとしての意義がなくなり、一部機関の情報交換のためのツールとしての意味しかもたないようになるのではなかろうか。
 専図協初期の先人達は国家的国際的視野に立って多くのプロジェクトを実施しており、資金面についてもアジア財団や国際交流基金などに援助をもとめたりしてその実現をはかっている。
 専図協は調査活動の他、日本橋三越本店で「新時代をひらく専門図書館展」を開催(1959)して社会にPRしたり、1979年にはアメリカの専門図書館協会(SLA)とホノルルで合同会議を開催したりもしているのである。
 そのすぐれた専図協の組織とネットワークを活かして、今後共専図協ならではのプロジェクトを立ち上げたり継続して欲しいと一OBの立場から切望する次第である。
⇒目次へ

Always on the trail, not in the dog house

井上 如

 5月3日、4日と長野県の白馬村に行った。3日は第11回の「塩の道会議」のシンポジウムにパネリストとして参加し、4日は第26回「塩の道祭り」の二日目のコース12キロほどを歩いた。好天に恵まれ、地元の人も一様に驚くほど、白馬を初めアルプスの連山が夕方まで輝いていた。

 図書館員という職業を選んだことは、功罪半ばしている。「功」を一言で言えば、図書館は何もしないでいい職場だということで、おかげで、勤め先にこそ出かけるがあとは”午前中チャラン、午後からはポランとしていれば済む”(野村総合研究所から東京大学へ転職したときの挨拶)ので、一般のサラリーマンのように自分をすり減らすような職場体験はしないで済むことだ。「罪」は、とにもかくにも一日中屋内にじっとしていなければならないことで、そのため”何もしないでいること”は却ってつらく、ついつい”働いて”しまったりすることだ。米国留学中にアミタイ・エオチーニの知識社会学に接してからは、専門職の腰巾着として半専門職というものがあって、図書館員というのはまさにその一つだということ、中でも米国はstigmaが図書館員を目指すということを知り、そうしたリアリズムを帰国してから無人図書館論として発表した。
 大学へ移ったら図書館の無人化はいまや国策だということを知らされ、却って仕事が増える始末だったが、そこはそれ、”仕事というのは有能な人がやるもの、無能な人はその邪魔をしないのが仕事で、無能な者が有能な者に伍して働こうとするくらい惨めなことはない”という職業倫理に関するエチオーニの言葉を思い出してから、ますます気が楽になった。

 上記パネルでは司会者からあらかじめ質問事項が言い渡されていたので、朝7時半に新宿から乗ったスーパーあずさの車中でその答えをあれこれ考えた。ところが、新宿から同じ車両に乗り合わせた山登りの大きなグループのなかに一人、目の不自由な人がいて、それが妙に気になった。真っ黒なめがねをかけていて、車内の通路を歩くときはリーダーとおぼしき男の腰のベルトにしがみついて行く。その連中はひと駅手前の信濃大町駅で降りた。
 もはや質問事項の答えを用意する時間はなかった。質問は、塩の道の良さや楽しみ方、歩くことの大切さなどのほかに、途中で二度ほど休憩を兼ねて、塩の道を紹介するスライドショーがあり、その感想も求められた。全体として「塩の道千国街道」の風景を愛でることがテーマの底流にあるように感じたが、それなら会場から一歩外へ出れば白馬の連山が眼前に輝いているじゃないか。”至言は言を去る”ということばを思い出して、答弁は口ごもることが多かった。

 そこで答えの替わりに車中での出来事を思い出して一席ブッた。リーダーとその腰にしがみつく目の不自由な人(山歩きだから杖は却って邪魔だ)を中にして改札口を出て行く、期待と喜びに満ちた一行の姿が、ついさっきのことでもあり、脳裏に焼き付いている。目が不自由だからこそ、目に風景が映らないからこそ歩く喜びを純粋にからだ全体で表すことができる。問題はむしろ、メディアを介した映像でみずからをごまかそうとしているわれわれの方じゃないか。風景なんてどうだっていいという言葉が思わず口を突いて出た。長年の職業生活への悔恨の念が頭のすみにちらついていた。夕方の懇親会は太平洋から日本海までの塩の道沿線の銘酒がテーブルに並べられ、そのテイスティングだった。言いたいことを言ったあとなので格別旨かった。おかげで翌日もるんるん気分で歩いた。
 5月8日、外国人と連休中のことを話し合う機会があったので、白馬村での経験についてあらかじめA4用紙4枚入りの資料を用意して、表記の題で話した。以上の文章はその焼き直しである。
⇒目次へ
後記

 「ふぉーらむ」第2号をお届けします。
 最初の原稿が届いてから約半年、第1号につづき、第2号も会員の皆様へのお届けが遅れてしまいました。誠に申し訳ありません。第3号こそはスケジュール通りに発行しようと心に誓う今日この頃です。
 発行時期こそ遅くなってしまったのですが、そのぶん会員13氏の皆様から玉稿をいただくことができました。授賞式の模様を文書におこした巻頭特集もあわせ、全ページ数は前回の約2倍、質量ともにそなわった冊子となりました。
 会員交流誌としては、体裁などを含めまだまだ模索しているところですが、今号よりも次号がさらによい冊子となるよう、ますますのご投稿をよろしくお願いします。
(小森・森本)

トップページバックナンバー